続 なぜ加藤浩次は走らなければならなかったのか
“インリン様”とお呼び!!
“インリン様”とお呼び!!「ハッスル7」でプロレスデビューするグラビアアイドルのインリン・オブ・ジョイトイ(年齢不詳)が27日、「インリン様」と“改名”し、都内で高田モンスター軍(M軍)・高田総統(年齢不詳)と初のツーショット会見を実現させた。インリン様は“キャプテン・ハッスル”こと小川直也(36)との2・11激突に向け、公開練習で戦りつの「鞭(むち)打ち刑」を初披露。前代未聞の「エロテロリストVS五輪メダリスト」の対決は6人タッグ戦に決定した。
「インリン、姿を現すがいい!!」。高田総統の呼び掛けで、インリン様が会見のステージに降臨した。黒のロングブーツにボンデージ風パンツ、紫の羽根飾りをまとった女王様は「これからは私のことを“インリン様”とお呼び!」と衝撃の改名宣言。「チキン小川をたっぷり調教してみせるわ」と名古屋のリングで小川を“M奴隷”にすると予告した。
インリン・オブ・ジョイトイは、「ほんと馬鹿ですねぇ〜」。その存在からつっこみどころ満載ですね。「エロテロリストって!、エロで革命かよ!」はてなキーワードによると、インリン・オブ・ジョイトイの「ジョイトイ」とは、「JOYTOY人民革命。テーマはrelaxed sensuality=「常識や形式、習慣に囚われない官能性愛優先生活」。パロディと様式美としての<共産趣味&アメリカン下品&謎の東洋美意識>に満ちたワイルドな宇宙の果てで、インリンは自らの多重人格的天地創造に、女王のように君臨し、奴隷のように貪り食われる。」らしいです。(爆
「ベタ」への優越感
インリンやプロレスの面白さは、「ベタ」なところです。「ベタ」は、対象に対して、同一の反復を見いだすことです。ある対象を「ベタ」であると呼ぶときに、そこに反復が見いだされています。いままでに幾度か見たような反復。それ故に、結果が予測でき、安心であるが、退屈である、ということです。
しかし世の中にそもそもまったく同一の反復などありません。ある対象を「ベタ」と名付け、呼ぶときに、対象を同一の反復として抑圧しているのです。だから、「ベタだなあ」というときには、メタレベルに立って発言しています。本質的にはこのようなメタレベルの発言(まなざし)は権力構造の上になりたっているために、ボクたちは優越感を感じ、楽しいのです。
ある行為に対して、メタレベルで語るのは、一つ上の位置、俯瞰の位置に立つということです。これは「おれは一つ上の位置にいるんだ」という封建的な権力誇示なんですね。封建的といっても、実際は現代社会でも一般的な構造です。家庭の親子関係、企業の上司部下関係、コミュニティの先輩後輩関係によく見られます。
なぜ加藤浩次は走らなければならなかったのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040807#p1
メタメタなまなざし関係
しかしインリンやプロレスと観客との関係は、このような単純な構造ではないでしょう。興行側はそれを演出として行っています。そして観客は「プロレスが演出だ」とわかっています。そして、興行側も「観客が「プロレスが演出だ」とわかっている」とわかっていますし、さらに、観客は「興行側も「観客が「プロレスが演出だ」とわかっている」とわかっている」とわかっています。というような、な「メタメタなまなざしの関係」の中で、それでも「あえてベタ」にプロレス、そしてインリンが行われます。
だから、インリンへの「ほんと馬鹿ですねぇ〜」という優越感は、インリンの思惑通りである面が否めませんし、「それをわかっていて「ほんと馬鹿ですねぇ〜」」と優越感を持ちます。それが現代のエンターテイメントの構造でしょう。
なぜ加藤浩次は走らなければならなかったのか
今回の27時間テレビでも、極楽加藤のマラソンは明らかに日本テレビの24時間テレビのマラソンというベタのベタなパロディです。加藤のマラソンが中継されるごとに、みなが軽くあしらい続けることによって、加藤がやっていること自体がかっこわるいベタなことであることが強調されます。それでも加藤が画面に登場するごとに、ほんとうに顔がやせ衰えていくのです。そのベタさとやせ衰えていく身体性とのギャップにリアリティが生まれるわけです。ベタを一生懸命演じる身体的な苦痛によって、リアリティを確保しているわけです。
なぜ加藤浩次は走らなければならなかったのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040807#p1
日本テレビの24時間テレビのマラソンは、毎年行われるものですが、それは走る人が異なるなど、正確な同一反復ではありません。しかしそれを「ベタ」であると呼ぶときに、そこに同一の反復が見いだされ、メタレベルから「ベタ」として抑圧されます。
そして27時間テレビで、24時間テレビのマラソンを反復することは、メタレベルのまなざしによって「ベタ」であると抑圧し、「あえてベタ」として反復すること、すなわちパロディです。そしてボクたちはこの「ベタ」へのメタレベルからのまなざしという優越感によって、楽しむのです。
加藤浩次は本当にマラソンしつづけ、そして加藤浩次はみんなから冷たい仕打ちをうけつずけます。誰もいない川辺から、スタートさせられ、番組が進行していく中で、走り続けているのに、放置され続けます。それによって、どんどん加藤浩次はボケ続けることを強いられ、そして加藤浩次のボケは宙づりにされ、どんどん自虐的な位置に追い込まれます。
これによって、加藤浩次の「ベタ」さは強調されます。加藤浩次という「24時間テレビのマラソン」のメタファーは、「マンネリ」で、おもしろくない、感動などよばないことと、デフォルメされ、視聴者の優越感は増幅されます。そのためには、加藤浩次は本当にマラソンし、自虐的な苦痛を味わい続けなければならなかったのです。
「メタ言語は存在しない」
しかし加藤浩次の顔がほんとにやせ衰えていくとき、それは「ベタ」であり、予測された反復なのだから、メタレベルのまなざしによって、笑っていればいいはずが、なぜか視聴者は予測外に興奮させられ、宙ずりにされていきます。加藤浩次の悲惨さに、あるいは「あえて」悲惨さへ自ら向かう自虐的な姿をメタレベルで笑いながら、加藤浩次の宙づりされたボケに、自虐的に追い込まれる姿へ、早くツッコんであげてほしいと願望します。
これはラカンのテーゼ「メタ言語は存在しない」に繋がります。すなわち巻き込まれていないメタレベルの発言(まなざし)、一方向のまなざしは存在しない。対象をまなざすとき、すでに対象にまなざされているということです。
ここで、ボクたちをメタレベルから引きずりおろしたのは、加藤浩次の苦痛に歪み、やせ衰えていく姿です。その姿にボクたちは欲望せずにはおれないのです。すなわちもはや加藤浩次が「私」なのであり、加藤浩次からまなざされているのです。
「インリン」というハイパーリアル
現代、肌の露出や、AVが一般的になるなかで、「インリン」の「ベタ」さは、昔懐かしい隠微なエロティシズムであり、哀れさである。一昔前のエロトピア的なエロ、純情な田舎娘が、生活に困り、騙され、落ちぶれていく的なエロです。そしてそれを効果的にしているのが、その童顔で、やや古風な顔立ち、そして外国人であるから当然なのですが、稚拙な日本語による知障的なしゃべり方です。
そしてインリンが「あえてベタ」に「インリン」であり続けようとするときに、そこにあえてみじめであろうとする自虐性が潜んでいます。
「あえてベタ」に徹底する「インリン」、「あえてベタ」に走り続ける加藤浩次を前に、ボクたちはメタレベルのまなざしによって、笑っていればいいはずが、その自虐性という裂け目をもつ対象a、欲望の対象であり原因である対象aとして作動します。そして、ボクたちは加藤浩次を、インリンを欲望せずにはおれないのです。
<対象a>は、「快感原則」に支配された心的装置の閉回路の裂け目として、つまりその閉回路を「狂わせ」、無理やり「世界に眼を向けさせ」、世界を考慮に入れさせる裂け目として、実際に機能する。<対象a>は現実を支える役割をするというラカンのテーゼは、そのような意味に理解しなければならない。われわれが「現実(リアリティ)」と呼ぶものへと至る道は、「快感原則」の閉回路の中の裂け目、その中心にいる邪魔な侵入者をかならず通過するのである。心的経済において「現実」の占める位置は、「過剰」の位置、つまり心的装置の自己満足的な均等の自足の内側から妨害・阻止する剰余の位置である。
汝の症状を楽しめ スラヴォイ・ジジェク ISBN:4480847081
これは、「メタメタの関係」という現代における、「現実(リアリティ)」の作られ方です。24時間テレビのマラソンのように、単にマジに苦痛を見せるだけでは、メタレベルに立つことに慣れた現代の視聴者は、。「ベタだなあ」、「嘘くさいなあ」と「現実(リアリティ)」を見いだすことができません。
27時間テレビで行われたことは、視聴者にこれが「あえてベタ」、パロディというシミュラークルであることを見せ、「「快感原則」の閉回路」の中にいるように、「油断させたところ」から、引きずり込んでいく。気が付いたときには、視聴者は加藤浩次を対象aとして欲望しているのです。
そしてシミュラークルは、欲望されることによって、「現実(リアリティ)」となる。それはボードリヤールのいう「ハイパーリアル」でしょう。
たとえば、「美川健一」も「ハイパーリアル」です。コロッケが「美川憲一」のものまねしたとき、本来の美川憲一を「ベタ」な同一反復へ抑圧し、「ベタ」な「美川健一」を作りだしました。そしてものまねは、視聴者をメタレベルから「美川憲一」を見下すまなざしを与え、その優越感によって、笑わせます。
しかし美川憲一自身が、その「ベタ」な「美川憲一」を「あえて」反復したとき、落ちぶれた、オカマで、気持ち悪さ歌い方をする「べた」な「美川憲一」をあえて演じるという自虐行為に出たとき、視聴者は、彼へのメタレベルのまなざしを保つことができなくなります。視聴者は「美川憲一」を欲望し、「美川憲一」というシミュラークルが、「ハイパーリアル」となります。
たとえば、最近、流行の「マツケンサンバ」にも同じ構図を見いだせるのかもしれません。成功者であるはずの松平健が武士の格好をしてサンバを踊るという「ベタ」な行為にでたとき、その滑稽な姿、自虐性を前にして、視聴者はメタレベルからの嘲笑を保つことができなくなります。
最近のモーニング娘。のおもしろくなさは、この視聴者のメタレベルのまなざしを引きずりおろす力がないことによるのではないでしょうか。アイドルは、おにゃん子クラブであり、小泉今日子の「なんてったってアイドル」などによって、「あえてベタ」まで行き着いています。その中で、モーニング娘。も、アイドルヲタであったつんくが、かつてのアイドルの再現、「あえてベタ」として作ったのではなかったか。もともとオーディションの落選組、そのふざけたグループ名から、アイドルのパロディであったのではなかったでしょうか。
そしてそのメタレベルのまなざしに、オーディションやデビューまでの苦労、涙によって、あるいはある意味アイドルとしてはかっこわるい自虐的な曲によって、欲望される存在として、「ハイパーリアル」を確保してきたのではなかっただろうか。それが最近は、いつのまにかただの「ベタ」なアイドルになってしまい、リアリティは薄れ、退屈なものになってしまったのではないだろうか。
アイロニーはベタを強化する
インリン、「美川憲一」、「マツケンサンバ」・・・これらが「(ハイパー)リアル」で有り得るのは、それが強力に「ベタ」=シミュラークル=まがい物であるからである、という逆説があります。「ベタ」であるばあるほど、まがい物であればあるほど、「リアル」なのです。
「メタメタの関係」という現代において、なにがリアルであるか見いだしにくい中で、「ベタ」は、メタレベルからのアイロニカルにまなざしされ、反復され、またアイロニカルにまなざされ、再々度反復され・・・・つづけることによって、逆説的に対象aとして、作動します。
27時間テレビが24時間テレビのマラソンを「ベタ」として見下すとき、コロッケが「美川憲一」をベタとしてものまねするとき、ボクたちがインリンを「ベタ」として見下すとき、なんだ「ベタ」か、と処理するつもりが、見つめずにはおれなくなる。それは、まなざしの快楽だからです。
さらにいえば、「インリン」へのアイロニカルにまなざしは、知らず知らずに共犯関係に巻き込まれているのです。なんだ「ベタ」か、と処理するつもりが、見つめずにはおれない、欲望せずにおれない、それはインリンにとっての「おいしい」ツッコミです。
これはデリダの脱構築への批判の一つにもなっています。 デリダが、あるテクストを批判的に、脱構築するとき、そのテクストを強化しているのではないのか。脱構築というツッコミは、逆説的に「おいしい」のではないのか、ということです。
デリダは「脱構築は正義だ。」と言いました。すなわち対象を絶えず疑い続けること、脱構築しつづけることが正義である。メタレベルのまなざしを介入させ続けること。しかしこのとき、対象は「ベタ」化され、さらに「ベタ」化され、「ベタ」化されていくことによって、「「カオスの辺縁」でエロビデオはワンパターン化する。」そして、社会の深層において構造化されていくのです。*2
「ベタ」な「インリン」は、アイロニーを望んでいる、アイロニーは「おいしい」のであり、アイロニーによって欲望される対象になり、リアルとなりえるのです。だからインリンは言うのです。「早く“インリン様”を脱構築おし!!」
ボクですか・・・ジョイトイ マンセー!!「常識や形式、習慣に囚われない官能性愛優先生活」 マンセー!!
*1:なぜ加藤浩次は走らなければならなかったのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040807#p1
*2:エロビデオはなぜワンバターンなのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050116#p1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050118#p1