なぜドラッグは規制されるのか?
いわばボクたちは一つのセンサーである。ボクたちはたえず外部からの刺激を受け、反応しつづけでいる。しかしこのインプット、アウトプットには必ずしも因果法則はない。なぜなら二つの他者を介するからである。「現実界(アポリオリ)の他者」と「象徴界(アポステリオリ)の他者」である。
たとえば目の前の机をみるということは、外部からの机を反射した光が目に届くことから始まる。それは生理神経システムと言語システムにより変換される。しかしカントの認識論によれば、「外部からの机を反射した光が目に届く」という科学的事実も客観的な「現象」であって、「物そのもの」ではない。
ここでは完全なる外部であるものそのものと、「現実界(アポリオリ)の他者」=「神経生理システム」による現実、「象徴界(アポステリオリ)の他者」=「言語システム」による現実に分けられる。これを「外部現実界」と「内部現実界」と呼ぶ。
「外部現実界」・・・・ものそのもの
「内部現実界」・・・・同一種により保障された「現実界の他者」の世界。猿が見る世界より他人間がみる世界は限りなく私の見る世界に近いだろう。
現実・・・・「内部現実界」を経由した「象徴界の他者」の世界。言語の世界。
まなざしの快楽とあぼーんする快楽
たとえば音楽を聞いて気持ち良くなることはどうだろうか。音楽を聞く快楽がどれほどアポステリオリ(後天的)かということになる。たとえばポピュラーな曲にはなぜ歌詞があるのだろうか。音楽と言語は切り離せないだろう。いわば音楽を楽しむには訓練がいるだろう。しかしすべてが訓練ではない。そこにあるメロディ、リズムへの没入にアプリオリ(先天性)なものはあるだろう。すなわち「現実界の他者」の快楽である。
たとえば、SEXで気持ちよくなるのはどうだろうか。キスの気持ちよさ。しかし目を開けるとオヤジだったら・・・それは一気に不快に変わるだろう。それはどのような性行為も「まなざし」のもとに行われているためである。すなわち「性関係は存在しない。」のである。
たとえば、お酒を飲んで気分良くなるというときには、どうだろうか。たしかにお酒を飲むという状況そのものがすでに、「無礼講」という開放感を生み出す。お酒を飲んでいるのだから、許されるだろうという「まなざし」の中にある。「酔っぱらいは存在しない?」しかしそれだけではない。そこには確かに「現実界の他者」への快楽があるだろう。
その極端が、ドラッグによる快楽ではないだろうか。この強烈な「現実界の他者」への快楽は、「まなざし」を吹き飛ばす。如何なる回りの状況に関係なく、快楽を与える。「まなざし」を吹き飛ばすとは、社会性を吹き飛ばすことである。それ故に、ドラックは法律で規制される。これをボクは「あぼーんする快楽」と呼んだ。
純粋な「まなざしの快楽」がなければ、純粋な「あぼーんする快楽」もない
まなざしによる快楽は、「象徴的な他者」の快楽であり、快楽とはそこに必ず「現実界の他者」の快楽がある。快楽を感じる原因が言語的なものであっても、快楽を感じるメカニズムそのものは、かならず生理的なものである。すなわち「現実界の他者」の快楽である。
たとえば、茂木健一郎によると「最近の脳科学の研究で、人はアイコンタクトによって他者に自分が認識されたときに脳内でドーパミンが分泌されて快感を感じる。自分が好んでいる人に認識されるほど反応が大きいらしいということがわかった。」ということである。どのような原因であっても、快楽自体は「ドーパミンが分泌」のような生理物理現象に還元される。科学は、このような「現実界の他者」の姿を暴露しているのである。
このようなこともあって、最近は社会の「心理学化」、さらには「脳科学化」がブームであると言われる。心の問題も哲学ではなく、認知科学が主流となっている。しかし心理ゲームのような心理還元主義や「ゲーム脳」などの脳還元主義自体は、世界を理解できたように感じる「転倒」=「まなざしの快楽」である。そして、科学の発展そのものが欲望によって行われる「まなざしの快楽」である。なぜ探求しなければならないのかと言う問いには、利便性以上の過剰が絶えず存在する。それは探求が欲望であり、「まなざしの快楽」だからである。どちらにしろ、純粋な「まなざしの快楽」がなければ、純粋な「あぼーんする快楽」もない。
「動物化」と「工学化」
また東浩紀の「動物化」への支持自体が、還元主義的な「転倒」である。そもそもにおいては、ボクたちは「動物的」である。すなわち「象徴界の他者」という「人間」と「現実界の他者」という「動物」の共犯、「まなざしの快楽」と「あぼーんする快楽」の共犯として、存在している。
しかし東は「動物化」を、また「工学化」として呼ぶとき、科学技術の発達が、直接「現実界の他者」へ働きかけていることを示している。「人間」/「動物」(「まなざしの快楽」/「あぼーんする快楽」)のバランスが「動物」(「あぼーんする快楽」)へ傾いているだろうということである。
たとえば「病は気から」という神話がある。また風邪を引いて寝込んでも、医者に行くだけで気持ちが落ちついたりする。これもまた事実であろう。しかし実際に科学的に検証されたドラッグの効果がある。それらのドラックは「象徴的な他者」を越えたところで、ラカン的に「存在しない」ところで、実際に「現実界の他者」へ働きかけるのである。
フロー体験
たとえば最近ボクが注目しているものに「フロー体験」と考え方がある。「フロー体験」とは簡単にいえば、時間が立つことも忘れて、あることに熱中してしまうような状態のことである。
インターネット上の消費者行動に関する研究で草分けといえば、1996年にジャーナル・オブ・マーケティングに掲載されたホフマンとノヴァクによる「ハイパーメディア・コンピュータ媒介環境におけるマーケティング」ではないしょうか。この論文の特徴を一言でいうなら、「フロー」という概念に注目したことでしょう。
「フロー」とはシカゴ大学の心理学者チクセントミハイが提唱した概念で、何かに没入し夢中になることで、最高の経験が持続していく状態を指します。ホフマンたちは、インターネット上の対話が切れ目なく続き、その行為自体が楽しくなり、我を忘れてのめり込んでいくとき、「フロー体験」が生じていると考えました。
いうまでもなくフローは、日常の様々な活動において経験されます。・・・さて、フローが生じるには2つの条件が必要です。まず、環境に何らかのチャレンジがあること、そしてそれに相応しいスキルが本人にあることです。したがって自分のスキルを越えた操作や、逆に簡単すぎる操作もフローを引き起こしません。フローが経験されることは快感であると同時に、学習が促進される、探究心が高まるといういい意味での副作用を伴います。
ホフマンとノヴァクの研究を今振り返ると、私は最初にウェブを経験したときの快感を思い出します。リンクボタンを押していくと、世界中に散在する様々な知識につながります。誰もが時間の経つのを忘れ、ウェブ・サーフィンに没入した経験を持っているのではないでしょうか。ホフマンとノヴァクは、まさにこれがウェブ上の消費者行動の本質だと見抜いたわけです。
このような体験はごく普通に誰にでもあるのではないだろうか。たとえばゲームにはまっているとき、あるいは2ちゃんねるでコミュニケーションしているとき、携帯メールのやりとりをしているとき、おもしろい本を読んでいるとき、TVを見ているとき、仕事をしているときなどなど。
しかしこれが現代において「フロー体験」としてクローズアップされるのは、情報技術の発展が早いフィードバック(応答性)を可能にしたことが上げられるのではないだろうか。たとえば、手紙のやりとりのように早くても1日以上かかるような応答性では「フロー体験」は起こらないだろう。そのときは夢中になって、わくわくしても、待つ間、快楽を継続することは困難である。
すなわち「フロー体験」とは応答性の快楽であり、広義のコミュニケーションの快楽ではないだろうか。ここでは、まなざしの快楽が働いている。しかしその応答性が早くなるときには、快楽が継続され、「あぼーんする快楽」に没入する。これが、大澤のいう「アイロニカルな没入」、あるいは北田の「ロマン主義シニシシズム」、さらには東の「動物化」に近いのではないだろうか。
どのような「まなざしの快楽」においても、そこには「あぼーんする快楽」が作動している。快楽そのものはいつもこれらの相補的な関係にある。
*2