続 デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか
速度の快楽
ある日ボクは昼下がりの小さな公園にいた。親たちが公園の隅で立ち話しを続けるなかで数人の子供たちがやっと補助車輪がとれたのだろう。やや危なっかしい操作で小さな自転車で小さな広場のまわりを懸命にぐるぐると走り回っていた。その生き生きとした姿は今にも空へ飛び上がりそうな勢いである。
たとえばこのような「速度の快楽」はバイク、車を運転する人なら感じたことがあるだろう。速度を上げていくときのスリル、快楽、超越感。これは「フロー体験」の一種ではないだろうか。
「フロー」とはシカゴ大学の心理学者チクセントミハイが提唱した概念で、何かに没入し夢中になることで、最高の経験が持続していく状態を指します。・・・さて、フローが生じるには2つの条件が必要です。まず、環境に何らかのチャレンジがあること、そしてそれに相応しいスキルが本人にあることです。したがって自分のスキルを越えた操作や、逆に簡単すぎる操作もフローを引き起こしません。
ウェブ・ブラウジングの快楽 http://www.itmedia.co.jp/survey/0402/18/svn01.html
それは慣れた速度では退屈であるし、能力を超えた速度では恐怖である。そこに「何らかのチャレンジがある」とは「それに相応しいスキルが本人にあること」であり、すなわちそこに勝算が見いだせる「対象」があり、そこに向かうときに、「フロー体験」の快楽は生じる。
「1/fゆらぎ」なドライブ感
たとえば、音楽を聴くときに同じ音の反復は聞き飽きるだろうし、繰り返しが少なく、次々に反復からずれた音ばかりになると、難解、あるいは「ノイズ」で不快である。このような状態は、「1/fゆらぎ」と言われる。ここにあるのは、反復と差異のバランスである。反復と差異の中間、不規則さと規則正しさのバランスに人はやすらぎを感じると言われている。このような「1/fゆらぎ」は人間の心拍数から、小川のせせらぎ、波の音、木目の線の間隔など自然現象の中に様々にある。「1/fゆらぎ」の快楽は、直接生理に働きかける「現実界の他者」の快楽だろう。
「フロー体験」はこれに近い原理があるように思う。たとえば、自分にとって幼稚で退屈な本でなく、難解で理解できない本でもなく、理解できるが難解な部分が含まれるような本にチャレンジし、理解していくことの継続において、「没入し夢中になることで、最高の経験が持続していく。」たとえば英会話を勉強中の人は、わかり過ぎる会話は退屈だろうし、理解できない高度な会話は不快である。わかる程度よりも少し難解な英会話に取り組むときに、没入は起こる。
「フロー体験」における差異とは、「無垢」である。小さな広場のまわりを走り回る子供たちは、「無垢」を手に入れたのである。身体的に制約された速度を越えるという未経験、本あるいは英会話の理解できるが難解な部分という未経験によって、新たな「無垢な世界」を手に入れたのである。「無垢」とはみなが欲望しているだろうまなざしの先である。だから子供たちは「世界の中心で叫ぶ」のである。「みんなこの僕を見てよ!」と。
すなわち「フロー体験」とは、まなざしにより「幻想の無垢」が見いだされ、開拓(消費)されていくとき、「1/fゆらぎ」的「反復と差異(無垢)」がドライブ感を生み、「あぼーん」させる快楽ではないだろうか。「象徴界の他者」の快楽の継続において、「現実界の他者」の快楽が表出してくる。
このような「フロー体験」は単に乗り物の速度だけのことではない。ラカンにとってコミュニケーションとはすれ違うことで成り立っている、「他者」とのコミュニケーションはかならず失敗する。(ラカン的にはコミュニケーションとは言わないだろうが、)このような「テクノロジーとのコミュニケーション」は必ず成功する。それはベイトソンのコミュニケーション論の「ゼロ学習」*1である。
この確実性がテクノロジーの応答性の速度を保証するのであり、すべてのテクノロジーは人の能力を機械論的に擬似拡張する可能性をもつ。そしてそこには「無垢への欲望」が生まれる。たとえば一般的に子供もパソコンは大好きである。学校教育でも楽しい授業の一つではないだろうか。キーボードを押すと即座に文字が表示される応答速度の快楽。それは大人でも同じである。パソコン能力としての応答性の速さ。しかしこのような「ゼロ学習」的反応そのものはすぐに退屈な反復になるだろう。この応答の速度が継続されるときに、「フロー体験」としてのドライブ感を生むのである。
他者回避と他者依存
このようなテクノロジーの発展は、(ラカン的に)「コミュニケーション不可能」な「他者」と、(ベイトソン的に)コミュニケーション可能なテクノロジーの対比がある。たとえば、ファーストフードやコンビニなどのコンビニエンス化とは「他者回避」である。しかしまた逆にケータイやネットなどのコミュニケーション依存、「他者依存」という両義的な現象がある。
「他者回避」傾向とは、テクノロジー、情報技術などのコミュニケーション可能性に比べ、複雑になる状況の中で、「現前する他者」との社会的、儀礼的コンテクストに強制されたつきあいは、「めんどくさい」ものになることだろう。
それに比べ、テクノロジー、情報技術、ケータイやネットなどの先にいる「他者」とのコミュニケーションは、テクノロジーという応答性の調整によって制御できる「他者」である。たとえば、メールであり、ネット掲示板であり、自分の気分でコミュニケーションするタイミング、あるいは続ける、回避することが決定できる。さらには2ちゃんねるなどの匿名の人々が多く集まる場所では、ネットのテキストベースという潜在的な情報量不足によるディスコミュニケーションを越えて、好きなときに、好きなだけコミュニケーションするということが可能である。
ここにあるのは「他者依存」というよりも「コミュニケーション」そのものが目的化した「コミュニケーション依存」であり、「フロー体験」に近いものであるだろう。すなわち>「象徴界の他者」の快楽の継続において、「現実界の他者」の快楽が表出してくる。「アイロニカルな没入」、「ロマン主義的シニシズム」、あるいは「動物化」である。
*2
*1:ある刺激に対する反応が一つに定まり、刺激−反応が単純な一対一の関係に固定された状態
*2:デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040718#p1