なぜ「ネオ形而上学的思考」なのか? <無垢への欲望 その3>

pikarrr2005-11-25

形而上学ポストモダン/ネオ形而上学


コメントと「芸術の本懐とは何か」を読ませていただきました。

要は芸術というのは「真の」とか「本当の」とかそういう幻想を諦めねばならないということになる。「大衆性」というのは、その向こう側へやすやすと越えてしまう共通認識を前提にしているのであって、芸術に関して知的な態度をとらざるをえない人々はその断絶を知っている限り、むしろ諦める態度しか取らざるを得ない。

さらに大衆/崇高なる芸術の図式は、大衆的(中心的)な芸術観を知るものに対し「否定してみせる」という距離化なのではないか。ブランショは共同体が互いを否定するための空間と呼んでいましたが、コミュニティや伝達といったものは、否定の運動なのではないかと考えます。

「もろもろの悲劇的本性が没落し去るのを眺めつつ、深い理解を、感動を、共感を示しながら、なおこれを笑いうること、これこそが崇高である」ニーチェ)を実践すること。そのために自己に客観的になり、否定されるのを拒まないこと。これこそが、重要な芸術の本義ではないか。

首塚の上の無頭人 「芸術の本懐とは何か」 長谷部悠作 http://under.the.velvet.jp/?eid=304377

ボクの言った「本物の無垢」のような、超越的な「起源」は幻想であり、「否定」すること。これはニーチェから始まり、構造主義ポスト構造主義へと続く、「差異の思想」ではないでしょうか。たとえば、デリタの差延脱構築、ドルゥーズの反復と差異のように、(形而上学的な)超越的「起源」という中心をずらすこと。さらにはここにニーチェ「笑い」も続くでしょう。「深い理解を、感動を、共感を示しながら、なおこれを笑いうること」とは、対象に没入しつつも、それに距離をおいて見るという距離、すなわちアイロニーを持ち続けることです。超越的中心からの差異、距離。これが形而上学に対するポストモダン思想です。

ここでボクは、ボクの考えを示すために簡単な構造を示したいと思います。すべてがこのような簡単な構図で説明できるわけではないですが。

形而上学的思考・・・「真の」「本当の」など超越的な起源と受け入れる思考

ポストモダン的思考・・・形而上学的思考(「真の」「本当の」など超越的な起源)を疑い、差異を思考する。 

③ネオ形而上学的思考・・・これがボクが思考しようとするものですが、ポストモダン的思考(形而上学的思考への疑い)の継続することが不可能であり、結局、どのような思考も形而上学的思考に回帰する。無理な懐疑でなく、形而上学的思考の救済を目指す。「ヘタレズム」



ポストモダン思考の滑稽さ


ボクが、前回、芸術について言及した*1のは、芸術が「神が死んだ後の」現代においても、もっとも有効な信仰の形態の一つとして機能しているからです。たとえば、名画などへの人の思い入れは、神性なものですし、コンサートなどはまさに信仰的な集会です。アーティストを信仰し、みなが陶酔する、感動する。

さらに現代の信仰の代表的なものが「恋愛」です。たとえば、ある女性に恋をした。寝ても覚めても彼女のことを思ってしまう。しかしなぜその女性なのでしょうか。無数にいる女性の単なる一人であり、また別の彼女である可能性はいくらでもあり、その彼女でなければならない「起源」など見いだせません。この「熱い想い」について、「真の」「本当の」という起源を疑う、「否定」する、ズラす、アイロニー(距離)をもって対応する。これはとても滑稽ではないでしょうか。

ボクはデリダも必ず恋をする」と言いました。神への想い、芸術への想い、イデオロギーへの想い、彼女への思い、家族への思いは、同様な原理で作動しているのではないだろうか。ポストモダン的思考は、思弁的にはよくわかるのですが、このような「滑稽さ」がつきまとい、デリダも必ず恋をする」すなわち「脱呪術化という呪術化」をする。それが「無垢への欲望」という「孤独な箱」に断絶された人々の飢餓感です。これが、ネオ形而上学的思考の前提です。




ポストモダンというテクノロジーの進歩


さらに多くにおいては、ニーチェも含めた、ポストモダン的思考は、「発明」ではなく、「発見」なのではないか。ニーチェの時代は、まさに進化論という「人間」の相対化、古典物理学の相対化など、時代が相対化へ向かっおり、その中にニーチェはいました。形而上学的思考への「否定」の思考をニーチェであり、その後のポストモダン思想家が考え出したというよりも、たとえばリオタールのポストモダン大きな物語の凋落」という名付けのように、時代が宗教的な神を必要としなくなり、大きなイデオロギーにリアリティーがなくなったことを、歴史家のように表記しただけではないのか。

そしてこのようなポストモダン的な、差異化される時代性を作っているのは、「テクノロジーの進歩」ではないのか。テクノロジーが進歩し、情報化されることによって、社会的な価値観は、かつてのような形而上学的な絶対性を維持することが困難になっているのではないか。

ボクはデリダも必ず恋をする」と言いましたが、また、デリダの恋も必ずいつか冷める。」とも言いました。ポストモダン的思考の本質とは、意志をもって、形而上学的思考を「否定」する(「この恋は本当は幻想なんだ」と考える)のではなく、「テクノロジーの進歩」、情報化が、様々な恋する機会(作られた可愛さというアイドル、、作られたエロのエロビデオ、あるいは出会い系による性関係の増加などなど)を増加させることによって、形而上学的な「純愛」を不可能にしていることではないのか。

特に、テクノロジーの進歩の先端として、ネットにおいては、主体はより散乱する傾向があるとも言われています。形而上学的な自己同一な「主体」が保たれずに、ポストモダン的に散乱するとも言われます。




「健全」形而上学的思考に健全な精神は宿る


このような考えには、様々な問題があります。思想界のファシズムへのトラウマは根深く、形而上学的思考を疑い続けることは、強迫的で、容易に形而上学の回帰は許されないでしょう。しかし「孤独な箱」に断絶された人々は、ポストモダン的な否定の否定の否定・・・という形で、「無垢への欲望」がズラされ、延滞され、価値が発散する中で、飢餓感が増しおり、逆にその反動で大きく転倒し、ファシズム的な信仰へ猛進する危険もあるのです。それが、オウムであり、最近のネット右翼化などの傾向とも言えます。だから、むしろ守られるべきは、「健全な」形而上学的思考なのではないか。

「本当の無垢」を求めた、神への想い、芸術への想い、イデオロギーへの想い、彼女への思い、家族への思いを、疑い、ズラす必要などない。「健全」な無垢への欲望に健全な精神は宿る」*2というのが、ネオ形而上学的思考の視点です。そして「ヘタレイズム」もここに繋がります。
*3

*1:なぜ芸術は人々の魂を揺さぶるのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051124

*2:続 なぜ「健全」な無垢への欲望に健全な精神は宿るのか? <なぜ「ヘタレ化するポストモダンなのか? その5> http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051113

*3:画像元 http://bb.goo.ne.jp/contents/program/brokore/strm20/index.html