続なぜ「ネオ自然主義」なのか <無垢への欲望 その4>

pikarrr2005-11-26

ネオ自然主義

形而上学的思考・・・「真の」「本当の」など超越的な起源と受け入れる思考

ポストモダン的思考・・・形而上学的思考(「真の」「本当の」など超越的な起源)を疑い、差異を思考する。 

③ネオ形而上学的思考・・・これがボクが思考しようとするものですが、ポストモダン的思考(形而上学的思考への疑い)の継続することが不可能であり、結局、どのような思考も形而上学的思考に回帰する。無理な懐疑でなく、形而上学的思考の救済を目指す。「ヘタレズム」

なぜ「ネオ形而上学的思考」なのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051125

このような構図はあまりに単純すぎますが、ボクの問題意識を明確にするために用いています。ボクの問題意識は、デリダも必ず恋をする」デリダの恋も必ず冷める」で表せます。

デリダも必ず恋をする」は、ポストモダン的思考のように、ズラしいくことの限界を示します。これは「認知限界」にも繋がります。いわばこれは円滑な記憶(伝達)システムであり、物理学的にはエントロピーの増加」に対応します。

ポストモダン的思考のようにズレつづけることは、あらたな情報を取り込んで行くことを意味します。しかし人は「認知限界」から、情報処理能力に限界があり、「複雑性の縮減」によって、なんらかの(形而上学的な)単純な図式によってしか、理解できません。すなわち形而上学的思考は、人間の生理的なシステムに基づいています。

デリダの恋も必ず冷める」は、形而上学的思考を保持することの限界を示します。いわばこれは記憶(伝達)の消失=「忘却」であり、物理学的にはエントロピーの減少」に対応します。

「認知限界」からくる「複雑性の縮減」でいえば、次々にくる情報を処理する中で、古い情報は捨てて行かざるおえない。特に情報処理社会では次々と新たな刺激的な情報が送り込まれ、特的の(形而上学的な)単純な図式に固執することができません。




カオスの辺縁


このように、ボクが言う「ネオ形而上学とは、いかに、現代において、人の生理的なシステム、あるいは社会システムが作動し、そして「健全」に維持されるか、を問題にします。それが、「健全」な無垢への欲望に健全な精神は宿る」ということです。だからボクはかつて「ネオ自然主義*1と呼び、またこのような主体の維持を「カオスの辺縁」として示しました。

■転倒・・・「偶有性から単独性への転倒では神性が捏造される」、象徴界(言語、社会)という内部を作り出す。内部の帰属として主体がつくられる。内部の価値としての真理が作られる。 形而上学、「デリダも必ず恋をする」

■反転・・・「単独性から偶有性の反転では神性は解体される」、内部が解体され、外部へと浸透する。 主体を解体する。真理を解体する。ポストモダン、「デリダの恋も必ずいつか冷める。」

カオスの辺縁・・・転倒/反転の往復運動の起点、自己組織化が起こる位置、生命が維持される位置、内部(言語、社会)が維持される位置。主体が維持される位置

■転倒/反転の構造は、虚像/真実の構造ではなく、継続/忘却=エントロピーの減少/増加である。「時間」という反転に逆らって、「無垢を求める欲動」(現実界)によって転倒が起こる。この新陳代謝によって内部(主体、真理)は維持される。すなわちそこに働く力は自然淘汰でる。

なぜ「ネオ自然主義なのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050822

「カオスの辺縁」というのは、複雑系の科学者カウフマンの言葉で、秩序相とカオス相との中間付近の自己組織化が起こる場所です。すなわち主体システムの維持は、適度な秩序(いわば形而上学的単純化)とカオス(いわばポストモダン的差異)によって行われるのです。(これはまさにドルゥーズの「反復と差異」に対応します。)

そして「カオスの辺縁」は、綱渡りのような状態であり、秩序(いわば形而上学的単純化)へ向かい過ぎても、カオス(いわばポストモダン的差異)に向かいすぎても、破綻します。

生命が存在し、かつ進化してゆくためには、秩序(形態)の維持と新情報(新形態)の創発という相反する2条件がともに必要であるが、秩序相は形態の維持には好都合だが新情報の創造性には欠け、カオス相は情報の創造力に富むがともすれば秩序維持にはむかない、というディレンマが生じるのだ。そこで生命秩序にとっては、秩序維持と情報創発という2つの条件をともに満たす場として秩序相とカオス相との中間付近のきわどい領域が自己組織性全般のなかでもとりわけ重要な意味を持つ。この領域をカオス辺縁と呼ぶ。カウフマンによれば、このカオスの辺縁こそ進化能が最大となる領域なのである。

自己組織化とはなにか 吉田民人編著 ISBN:4623025608



ネット社会における主体維持


かつては、テクノロジーが発展する前は、カオス(いわばポストモダン的差異)の進入が少なく、ゆっくりとした秩序(いわば形而上学的単純化)が進んでいました。しかし現代の情報化社会では、カオス(いわばポストモダン的差異)の進入が活発すぎて、秩序(いわば形而上学的単純化)維持に懸命です。ネット社会において、特にカオス(いわばポストモダン的差異)の進入が活発になっています。

このために、たとえばネット上では、ネカマ、あるところでは子供などなどの切り替えが容易で、その結果、主体の散乱、疑似多重人格性に向かうのではないかと、指摘されています。

部族社会の小さな共同体においては、諸個人は誕生から「知られて」おり、日常の経験によって同一性を再生産するような広大な親族関係の構造の中に組み込まれている。こうしたコンテクストにおいて、主体は社会的であり、相関的な自己として構築され、再生産されている。都市においては、対照的に、諸個人はそのような同一性の再生産から引き離されているが、ここでの会話は、情報様式以前には対面状況的な位置を必要としており、それゆえ個人を特定する身体的な「署名」をされており、必要ならば実際の同一性は後から召喚することができるのである。書き言葉と印刷によって、同一性はコミュニケーションからさらに取り除かれるようになったが、著者性は、たとえ筆名であっても、同一性を固定する役割を果たした。コンピュータのメッセージ・サービスと共に、言語使用は根源的に伝記的同一性から分離されたのである。同一性はコミュニケーションの電子的ネットワークとコンピュータの記憶システムの中で錯乱したのだ。

[お勉強]情報様式論 THE MODE OF INFORMATION マーク・ポスター (1990) その3 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040413

しかしボクは、現実起こっているのは、逆ではないだろうか、と考えています。 カオス(いわばポストモダン的差異)の進入が活発になるから、逆に秩序(いわば形而上学的単純化)=自己同一性を保とうとする、懸命に「本当の自分」を求める、(これを「ヘタレ化」と呼びます)ということです。

たとえはのまネコ問題が宗教的であるのは、2ちゃねらーが、2ちゃんねるという場に対してマジに思い入れがある。それは、2ちゃねらーである自分へのプライドであり、自己同一性への渇望です。 ネット上で様々に「炎上」が起こっているのも、白熱するのは議論の相違ではなく、賭けられているは、プライドともいえる自己同一性の維持です。あるいは電車男の物語のような「おまいら」の繋がり、正直さには、社会的な自分よりも、「本当の自分」がここにいるということの表れです。




哲学の終わりとヘタレの可能性


このように「ネオ形而上学、あるいは「ネオ自然主義において、形而上学ポストモダンも本質は、「思想間の闘争」というよりも、「主体と環境との闘争」なのです。だから哲学的よりも精神分析的です。その根底には「歴史の終わり」、そして「哲学(思想)の終わり」があります。もはや哲学(思想)は闘うべき敵を失った「議論ゲーム」としてしか維持されていない。世界の様々な境界は失われ、混沌(カオス)とした透明な(資本主義的な)秩序によって維持されて、その中で主体システム、あるいは人々(マルチチュード)はいかに生きるのだろうか。

そうかんがえると、アイロニカルどころかイデオロギー的でさえなくなった世間というのは、まさしくネオ形而上学的なんでしょう。番組は目に見える倫理さえ貫けばいいわけで、根底の社会的責任とかはもはやどうでもよくなっているし、2ちゃんねるは「ネタにマジレスカコワルイ」が、「マジ」なはずのスレ・レスにまで浸透し、空気を読むこと、社会を維持することこそが至上になっている。これを現実的妥協で終わらせるために、「住み分け」されて「文句があるなら見るな」という大義名分になってしまい、「皆で正しくありましょう」というような異議申し立てがウザがられるようになる。

嫌韓厨やプロ市民がヘタレと呼ばれるのは、右翼左翼が飾り的に使われ、当事者としての強い意識もないのに、制度の正当性を理由に騒いでるからなんですよね。つまり関わりのない人間が、日夜「繋がる」ために、はた迷惑な祭りを連夜行い続ける。彼らがある程度客観的に自己を振り返れば、否定はされなくても、肯定もされません。

長谷部悠作

「議論ゲーム」において、イデオロギーであり、右翼左翼などはあるのでしょうか。エリートとヘタレの差異さえも不明確です。だからといって、悲観的になっているわけではないのです。それでも主体は懸命に生きていくし、社会秩序は懸命に保たれようとしてる、そして今まで哲学家、思想家などのエリートのみが与えられていた発言権が解放され、ブログレベルでヘタレたちの様々な言説に溢れ出している。ネット社会はまだ始まったばかりで、ヘタレたち(マルチチュード)への可能性に満ちています。

*1:なぜ「ネオ自然主義なのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050822