東浩紀の「ポストモダンの二重構造」とその限界

pikarrr2006-01-17

東浩紀「渦状言論」 の記事、「解離的近代の二層構造論」http://www.hirokiazuma.com/archives/000194.htmlhttp://www.hirokiazuma.com/archives/000195.htmlについて、書いてみました。


①二重構造のラディカルさ

東のポストモダンの二重構造」http://www.hajou.org/hajou/hgimg/csnz19/fig1.pngにおいて、動物的原理の層/人間的原理の層=認知科学精神分析は二重構造の意味を良く表しているでしょう。ここでなぜ精神分析だけが人間的原理の層なの?!といってはいけません。ここで、東が重点化したいのは、科学な中でも、精神分析は重要だ、特異だということです。

認知科学は、進化論をベースにできています。人間というものを解明するとしても、、それは人間−動物の連続性の中から、人間/動物の差異が見いだされるます。これは、「動物としての人間」科学といえます。

フロイトでは曖昧ですが、ラカンでは徹底的に動物性(情動性)は排除されました。人間は「動物」ではない、決定的な断絶があるということです。「人間としての人間」科学です。たとえば、このようなラカンの強烈さはそのそのテーゼ「性関係は存在しない」ということに現れています。これは、動物は生殖のために性関係をするが、人間のセックスには、そのような意味での性関係はない、ということです。人間のセックスは人間のみが行う文化的な行為なのです。

この東の二重構造は、精神分析だけのものではなく、哲学そのものに内在する人間/動物の差異です。ヘーゲルは、動物は「欲求」するが、人間とは「欲望」すると言います。またハイデガーは現存在としての「人間」の特異性を示しました。そしてこれらの断絶をラカンを含めたポストモダン思想は世襲しています。

たとえば東が身体の層をデータベースとして見るときにも、このラディカルさでとらないといけません。すなわち身体がデーターベース化されるのでなく、データベース化されたものが身体なのです。たとえばマックの硬い椅子の例では、硬さと客の滞在時間はデーターベース化可能です。実際これも都市伝説だと思いますが、マーケティングではこのようなことを行われているのです。

東の「動物的原理の層/人間的原理の層」、動物/人間の差異は、この強烈さで理解しないといけません。認知科学も人間を扱うではないか?というレベルではこの断絶は理解できません。



②重点化された「身体」と取り残された「心」

このような二重構造は、特に近代以降の最大の特徴です。テクノロジーの発達が、主体をどのように変容させてきたかということを表しています。まずに近代の初めに、心身二元論があります。しかしこれはいわば、事後的です。そのときにそれが問題になったというより、後にたどると心身二元論がだった、というようなことです。

そして現代(ポストモダン)には、さらに心身の解離が大きくなる、という世界観です。「コミュニティの層」(主体(内面)の自由・・・複数のコミュニティ(島宇宙化))とは、「心」を表しています。そしてアーキテクチャの層」(身体の管理・・・単一のアーキテクチャ)は、「身」を表しています。

科学とは本質的に「身」を扱う学問です。すなわちテクノロジーの発展は、「身」が解離し、重視されていく課程です。テクノロジーの発展、「身」の重心化とは、生管理、環境管理のような政治的に「身」が重視される。さらに刺激による快感のように「身」を満足させる=これが動物化ですね。医学でも、精神分析から器質的精神病理学へ向かいます。最近では、薬物であり、機械と身体の結合(サイボーグ)、遺伝子などなど。もはや「身」の重点化は止まりません。まずこのような状況を考えないといけません。

だから問題は、このお荷物!である「心」はどうなるのか、ということです。これはテクノロジーに還元されない、認知科学などで追いかけても、必ずのこる残余です。規律訓練型、あるいはパノプティコンなどと言われますが、テクノロジーによって甘やかされた身体は、もはや拘束などされません。「コミュニティの層」(主体(内面)の自由)とは、自由とは言い方が良いですが、放置された「心」です。

テクノロジーによって重点化される「身体」と、お荷物になる「心」は、動物/ヘタレの対比で語られます。宮台の「終わりなき日常を生きろ」とは、お荷物になった「心」よ、それでも生きなければならない、ということです。あるいは最近の右翼発言は、お荷物の行き先の確保の提示です。北田は彷徨える「心」「ヘタレ」と名付け、その一部である2ちゃねらーを擁護します。大澤もオウム信者分析で、あるいは斉藤はひきこもりで、お荷物の「心」の行方を問題にします。

これに対して、東は、身体が満足されれば、心も充足するだろうと考え、その実践をオタクに求め、これを動物化と呼びます。だから東の問題はテクノロジーによって重点化された「身体」が、環境管理にさらされているのではないかということが、問題視されます。



「心」たちの暴走

ボクはこれらとはまた異なる図式を考えます。ised@glocomでも語られたサイバーカスケードです。いわゆる2ちゃんねる「祭り」です。これはお荷物になる「心」たちは、ネットというテクノロジーによって、北田がいう「繋がりの社会性」によって、創発的に、雪だるま式に暴走する行為です。この影響は、イラク人質バッシングのまネコ問題などです。

それは特にマスメディアによって、多くにおいてマイナスのイメージで語られます。また宮台はこれを強迫的なヘタレな行動といいます。しかしアメリカでも小さなきっかけで、ニュース番組の人気アンカーマンが退陣に追いやられたり、中国の日本人排斥運動でもケータイメールは使われたというように、政治的な力も持ち得て、確実に社会的な影響まで与えています。

ここで面白いのが、テクノロジーの発達が、「身体」ではなく、「心」に大きな影響を与えた事例であるということです。たとえば、ネットはなぜこれほど爆発的に普及したのか、あるいはケータイしかりです。これが利便性によるものでないことは良く言われます。伝える必要があるから連絡するのではなく、「繋がりの社会性」といわれる、繋がりたいから、寂しいからという「心」の要請(欲望)によって、普及したのです。

そしてこれは、動物化としての充足でもなく、お荷物としての「心」でもなく、創発的に暴走するという新た行き場を見いだしつつ「心」たちの姿です。これは東の図式において、「不自然に」排除された、「テロリスト、フリーライダー、匿名的存在」たちによるものです。これを単に脱社会的な存在と見るのでなく、排除された「心」たちの逆襲と見ることができるのではないでしょうか。どのような形でも、身体(動物)に還元できない余剰としての「人間」であり、そこには、アーキテクチャを乗り越えていく力となりえる可能性を秘めているます。



「政治」的なものの回帰

現代で社会秩序の総体を考えるときには、政治の分析は本質的にならない。つまり、二層構造論は、政治的帰結を提案しないどころか、「政治は社会秩序の分析にとって第一のものではない」と結論する理論なのだ。・・・僕たちはそのような脱政治的な社会を目指すべきだ。社会秩序の運営をひとつの閉鎖的なコミュニティに全面的に委託してしまう(間接民主制というのはそういうものだ)のは、単純に危険だからである。これは二層構造論の積極的帰結のひとつである。

「解離的近代の二層構造論2」 東浩紀

これが東が「心」「政治」ではなく、「身体」「環境管理」へ向かう理由です。しかし創発性という「心」たちの暴走は、このような「身体」「環境管理」を乗り越える可能性があると思います。創発性の生の力と、それを環境管理という共にテクノロジーに支えられた対立が生まれます。

ボクは、「解離的近代の二層構造」という場合には、もはやこのような構造ととらえなければならないと思います。「コミュニティの層」(主体(内面)の自由)は、相互無関心・島宇宙化だけでなく、「繋がりの社会性」創発性です。それがシミュラークル的であっても、不安定で動的な力と持ち得ているということであり、それがいままでの意味で「政治」的でなくても、「政治」として作動していくのです。