「安全な危険」の時代

pikarrr2006-03-05

情報化と「良心の声」脱構築


現代のキーワードは「安全な危険」ではないだろうか。ゲームでの闘い、2ちゃんねるという匿名の発言、ロリコンという社会的なタブー、自己責任論、それらは全て「安全なところからの危険への近接」であり、これを、一頃で言えば、「バーチャル」である。

人はなにを引き受けるか。「このとき」「この痛み」「この感触」、現前のありありとして「この」性が「私」「この」性、唯一性を想起しつづける。ハイデガーはそれを「良心の声」と呼んだ。この現前、この私=現実(リアリティ)は、「良心からの声」という主体の引き受けだ。この私はこの私に任されたという、責任の在処である。

デリダが批判したのは、まさにこの現前性である。耳と目の差異、パロールエクリチュールの差異、エクリチュールの引用可能性、失敗可能性は、「この」性を可能性へと脱構築する。

これはまさに、現代の情報化だろう。テレビ、雑誌、ゲーム、ネットetc。容易なコピー(引用可能性)は、この現前、この私=現実(リアリティ)を可能性への脱構築する。すなわち「良心の声」という引き受けが脱構築されるときに、可能性とともに、「責任」は発散する。この私でなかった可能性、この私の罪が誰かの罪であった可能性。そこにあるのは、偶然性である。その罪を背負ったのは、たまたま私であっただけだ。




内部と外部


ここには駆け引きがある。現前性という「この私」と可能性という誰でもありえた私。これの対立をボクは「断絶」による「内部と外部」として以下のように示す。これはまさに主体の両義性である。

「内部」・・・心、後天的(アポステリオリ)、1回性、マクロ
      →想像界象徴界(言語、無意識)、バタイユのエロティシズム、フロイト超自我

「断絶」

「外部」・・・身体、先天的(アプリオリ)、反復性、ミクロ
       →ラカンフロイト「欲動」エス現実界(物自体)、脳神経学、認知科学




「安全な危険」


現代は内部という主体への、情報化という外部からの「偶然性」の進入が活発化している。それは究極的には解離症へいたるだろうが、そこで主体が自らを守るために編み出した方法が「安全な危険」である。

外部からの「偶然性」の進入に対して、内部へ強く避難し、「この私」を確保する。しかしこれだけでは、その息苦しさに耐えられない。そのためにその「安全な場所」を確保しながら、外部からの「偶然性」へ近接する。

安全で快適な部屋で、ゲームによって生死をかけた闘いをする。2ちゃんねるという匿名性の安全からヘイトスピーチなどの危険な発言をする。幼児という弱く安全な者へ、ロリコンとして社会的なタブー(危険)へ近接する。ここには、保守化した強い「この」性に支えられたプライドと安易に危険に近接するという社会性の低さがあることが指摘されている。それが「安全な危険」である。

このような「安全な危険」を宮台のように「ヘタレ」と一喝することもできるだろう。しかしまた溢れる情報に溺れ、つぎつぎ展開する価値観という情報化社会の中で、「この私」という現前性を強く、引き受けて生きることは難しい中で、「この私」を維持し、柔軟であるという現代を生き抜く、サバイバル法であることも否めないのではないだろうか。