なぜ「この私」であって、他人ではなかったのか。

pikarrr2006-03-03

なぜ「この私」「この私」


柄谷は「この私」を固有名であると言いました。犬と「ポチ」の違いですね。100匹の犬がいて、どの犬である可能性はありえた。しかしそのうちの1匹を選び、「ポチ」と名付けた。固有名の過剰性とはなにか。これはラッセルからつづく言語論上の議論です。

東は、デリダ「郵便的」をつかって、「ポチ」がその犬でなかった可能性(散種)が転倒されて、「ポチ」という確実な意味(多義性)になる。そしてその転倒(散種の多義性化)で失われた可能性が過剰があるように錯覚させる、と言います。

ボクはジジェクラカン)の固有名論を絡めて、どの犬でもありえた可能性の中で、「この犬」を選んだのはなぜか。名付けられた根拠はなにか?そんなものはない。しかしそれに意味=過剰があるように振るまわれる。「ポチ」とは対象aです。そしてここでも東と同じように、可能性の抑圧があります。

すなわち「この」性は、クオリアであり、この「現実(リアリティ)」のありありとした感じです。そして人は「この」性から逃れることはできるません。目の前のりんごが5個あるときにも、それは「りんご」であるが、目の前の「このりんご」であり、そこには「小さなこの性」「小さな単独性」があります。たとえば「大きな単独性」とはアウラでしょう。




自由意志の在処


これを「自由意志」の問題につなげると、「この私の選択」には、ほんとうは意味などないが、意味があるような振るまいであり、その過剰は、選択された「もの」対象aとして振るまわれるからです。すなわち「自由意志」とは、可能性を抑圧した「意味」であるということです。

ボクはラカンから、主体を否定神学システム」としてとらえますが、これは象徴界の穴、ゲーテルの消失点、言語化できない自己言及点=「この私とはなにか?」が、否定的に(欠如として)主体という単独性を示す。それは、消失点を隠す欲望の対象aという空想を見せることによってです。すなわち主体とは消失を隠す「空想」である、ということです。これは、自由意志が「この選択」という単独性であり、対象aである、ということとまさに繋がります。「自由意志」による選択が、自己同一性を維持する、ということです。

しかしこれは「意味」の問題です。主体が、「選択」「意味」を見出す方法です。100匹の犬から「ポチ」を選んだことが、単なる「偶然」でなく、必然であったという「必然」を支える「意味」です。自由意志の問題は、さらにこの「偶然」が本当に偶然か、ということが残り続けるということでしょう。行為の「選択」はいかに行われるのか。

それには、心の作用(意識的意志、無意識)+身体反応+外部環境要因の要因が考えられます。すなわち自由意志の在処は欲望の対象である「意味」想像界象徴界)の向こうにあり、到達できないところ(現実界、物自体)にある、ということです。