なぜ「歴史」は科学的に記述されないのか

pikarrr2006-12-17

科学的帰納法という寛容


科学は帰納法であると言われる。帰納法とは「観察や実験を繰り返し行い、観察事実(データ)を蓄積し、たくさんの観察事実(データ)に基づいて、理論を構築する」ということ。ここで問題は、繰り返しということ。たとえば物体Aと物体Bの衝突実験のように力学の基礎実験は繰り返し(検証)が容易だろう。誰がいつやっても再現されることで、「確からしさ」が積み上げられていく。

でもその後、それにあわない結果が出る可能性は排除できない。たとえばニュートン力学は多くの人に繰り返されて、「確からしさ」が確認され、教科書にものっている。しかしそれがアインシュタインによって崩された。

科学的帰納法の有効性はここにある。「別に絶対の真実でなくても、みんなが「確からしい」と認めればよいじゃん!」という寛容さこそが、社会に活用され、成功している。




反証可能性という不寛容


では心理学どうだろうか。これは科学もあるから、帰納法が用いられる。ある条件で人はどのように行動するか。それが繰り返し行われる。しかし力学のような誰がいつやっても再現されるような「確からしさ」がえられにく。経済学など社会科学もそう。

では超能力研究はどうだろうか。超能力の非科学性は、もっと再現性が低いからだ。できたり、できなかったり、心霊現象や宇宙人なども。科学は真実ではないが、「確かなもの」だ。では、どこまでが「確からしさ」で科学なんだろうか。

その中で「科学とは反証可能性があるものだ」という考えがカール・ポパーによって示された。反証可能性とは、誰にでも繰り返し実験(検証)が可能で、いつでもその間違いを指摘できる(反証可能性)ような理論だけが、科学である、ということだ。繰り返し実験ができないようなものは、「確からしさ」を調べられず、科学とはいえない。

ここで行われているのは、繰り返し検証できるものを科学という内部と、検証できないものを非科学として外部に排除すること。さらにいえば、単純なことを科学と言い、再現が難しいほど複雑なものを非科学といおうということなわけだ。

反証可能性においては、超能力は当然であるが、心理学や経済学など人文科学全般が科学であるか、微妙になる。これも一つの考えであり、科学とはなにかに、明確な答えはない。




すべての現象は1回限りで複雑だ


すべての(自然)現象は厳密には、1回限りで繰り返しなどできない。物体Aと物体Bの衝突だって、厳密には同じ結果は起こらない。物体Aと物体Bが衝突するときの回りの環境は厳密に同じであることはありえない。そして回りの環境が異なれば、繰り返し(検証)でなく、異なる結果ということ。力学はこの環境の差が小さいとして近似的な解を与えているだけだ。

さらに最近のカオス理論でいえば、小さな差がその後の結果に大きな現象の差を生み出すという結果が出ている。すなわちすべての現象は複雑である。




科学的切り取り法としての要素還元主義と帰納法


このような単純化の代表的な手法が、古典力学に代表的である、複雑なものを単純な要素に還元して、単純なモデルとつくる要素還元主義だ。物理学が、原子、陽子、クオークなどへとより細部の単位へ向かったのも、要素還元主義を展開するためである。

世界に同じもの、同じ現象は一つとしてない。それをある単位の集まりとして扱うことで、近似的な単純化されたモデルをつくる(要素還元主義)。そして単純化されることで観察の繰り返し(検証)が可能になり、みんなで「確かだ」と信じること(帰納法)が、科学であるということだ。そして科学は、自然を単純に切り取って、見せているだけだ。




すべては成長する複雑系である。


それに対して、最近の科学の傾向が、複雑系という非還元主義である。還元主義は「全体は部分の総和である」という考えであるが、複雑系「全体とは、部分の総和以上である」という非還元主義である。要素がそれぞれに関係することで、全体としてより複雑な振るまいをする現象である。

要素還元主義と複雑系の違いは、機械と生物の差を考えるともっともわかりやすい。機械は古典物理学(力学)に従い、全体が部品の総和として機能する。しかし生物は力学に還元されず、部品の総和以上に機能し、成長する。

複雑系のような考え方は、アリストテレスの時代からあるが、処理能力として複雑すぎて扱えなかったわけだ。だから要素還元主義が発展したといえる。複雑系が1970年以降に発展したのは、コンピューターの普及によって、多くの要素とそれぞれの関係を考慮した複雑系をシミュレーションすることができるになったためだ。天候、交通渋滞、経済などの生物のようなに振るまう複雑系は、コンピューターによってシミュレーションされている。

すべての現象は複雑であるというときには、成長する複雑系ということである。




宇宙の歴史と人の「歴史」の違い


複雑系は科学であり、自然を単純に切り取って、見せていることにはかわりがないが、そこで現れた成長する複雑さの本質は、その成長が1回限りの現象であるということだ。

たとえば科学において、宇宙の創生(ビックバン)から終焉(暗黒の世界)が予測されている。さらにはこれは一つの宇宙の始まりと終わりであって、世界には多くの宇宙が存在し、それぞれで始まりと終わりが繰り返されている。これは科学者の想像の世界であるが、科学らしい想定である。世界は反復に溢れているのではく、世界から反復を取り出すことが科学であるということだ。そしてボクたちは、科学という認識方法を通して世界を見るしかなのだ。

このような宇宙の歴史に対して、人の「歴史」はどうだろうか。人の「歴史」には繰り返しはなく、すべて一度きりのものだと考えられている。これを宇宙が単純で、人が複雑であると考えてはいけない。すべては複雑であるが、この差は、人の認識方法の差である。

人は宇宙を科学的に反復に還元し単純化して認識するが、「歴史」すなわち自らの物語は反復によって単純化することを「好まず」、1回かぎりの複雑なものとして見ようとする。




ただの1匹のように扱われる倫理的な不安


人との身近さということでは、宇宙と人の歴史の中間に、生物の歴史、すなわち進化論がある。進化論は地球において1度かぎりのものと考えられるが、他の地球があれば、反復される可能性も考えられるという意味で、まさに科学と「歴史」の中間に位置する。

ここでダーウィンとほぼ同世代を生きた、ニーチェの永久回帰を考えるとおもしろいだろう。永久回帰の思想は、科学的反復と「歴史」の一回性の融合である。宇宙の反復が人の「歴史」に接合し、人の「歴史」の唯一性を守るために、無数に近い反復の中で、いつか同一の人の「歴史」が起こると考えられる。

ここにあるのは、進化論と同じ衝撃、一回限りの人の「歴史」が、科学の反復に取り込まれることの不安である。たとえば自らが科学として解体される、反復によって単純にされることの不安とは、蟻の群の1匹のように個性がなく、多くのただの1匹のように扱われることの不安である。私という唯一の存在が、反復の存在、個性のない多くのうちの一人でしかない存在へおとしめられるという倫理的な不安である。そこでは、私が死んでも、部品交換のように他の人によって入れ替えが行われる。




「歴史」は複雑さを複雑なままに語られる


心理学や経済学のような人を科学する場合、多くの実験結果は、統計学的に示される。80%の人がAの行動したというような「確からしさ」が示される。ひとりひとり違う人が、あたかも人間という同じ単位の集まりと還元し、それが繰り返されるとして「確からしさ」を示している。

これはどこまで科学かという疑問とともに、この単純化には根深い倫理的な抵抗がある。私は唯一の存在であり、私の行為は唯一のものであり、それが科学的理論に従うなどということはない、ということだ。

人はだれもがかけがえのない唯一の尊厳ある存在であるという倫理。人の歴史とはかけがえのない人が起こしたかけがえのない時間であり、宇宙の歴史と同列に語られるようなものではない、という倫理的信念がある。だから「歴史」など人間については、科学的な反復による「客観的」な記述でなくても、その複雑さを複雑なままに語るために、記述者の主観が多分に含まれいても、言葉により記述されることが許されるのである。

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