モバゲータウンはなぜ薄気味悪いのか

pikarrr2006-12-19

いじめ対策としての異なるチャンネルの確保


いじめが問題になっているが、いかにいじめをなくすか、という論点は不毛なように思う。暴力などの犯罪行為ならいざしらず、無視、陰口などの集団的ないじめは、人間のコミュニティにおいて必然ではないだろうか。誰かを外部へ排他することが内部を形成する条件であるように思う。そしてだれが排他されるかは、偶然であり、だれもが排他される可能性がある。

様々に語られるいじめ対策の中で、比較的有効だろうと思ったのが、学校のクラスなどの小さな世界に埋没せず、異なるチャンネルを確保しようというアドバイスである。




自意識は1回性に支えられる


多くの悩みは他の人からみるとなんてことはない。なんでそんなことぐらいで、悩み、極端には死を選ぶのだろうかと思う。その程度のことは誰もが経験することで、そのうちなんとかなるよ。そんなに思い詰めない方がよい、と考える。

ここにあるのは、1回性と反復の関係である。思い詰める人は「いまこのとき」という1回性に切迫する。それに対して、「誰もが」「そのうちに」と反復される多くのなかの1回性であると考えることで、1回性の切迫は緩和される。

たとえば思春期の恋が自意識過剰であるのは、初恋というように強い1回性があるからだ。大人になり、いくつかの経験という反復によって、初恋のような高い1回性と緊張感を感じなくなる。人生経験を積むということは1回性から反復への緩和である。

このように自意識の高さは、1回性の強度に関係する。私という誰とも違う唯一の存在、そして繰り返されないいまこのときという思いが、自意識を支えている。これに反して、自らを多くの人のうちの一人、何度でも繰り返された行為(経験)の一つという反復として考えることで自意識の強度は低下する。




1回性という倫理観


毎日ニュースから多くの死が報道されている。しかし多くの人は流れる話題の中で気にもとめない。それはニュース上の死が、「毎日」、そして「多くの人の一人」という反復によって、緩和されているからだ。そしてこのような反復による緩和の極限は、生物の群である。蟻はどれも同じで、機械のように決まったプログラムで行為を行う存在として認識され、その1匹の死は軽い。

それに対して、その死が自らの身近なものであるとどうだろうか。強いショックと悲しみを感じるだろう。身近な人は私にとって唯一の人であり、その1回性は反復に緩和することができない。

これは倫理の問題である。「身近」な存在ほど、自分にとってかけがえのない、すなわち反復されない存在ということだ。反復へ解消されない唯一の存在であるとき、自意識がうまれ、生への緊張が生まれ、そして他者の尊重という倫理感が生まれる。




1回性と反復のバランス


その意味で若者について言われることは両極にある。最近の若者は自意識が高く、小さなことに過剰で、絶望しやすく弱い。また最近の若者は、他者を尊重せずに、倫理観が低い。この二つの傾向は、自らの1回性の強度の強さに対して、回りへの1回性の強度の弱さを示している。

この両極が意味するのは、「身近さ」の小ささである。自分の近接にのみ強い1回性の強度があり、少し外れると反復として希薄化する。このような傾向はオタク関連でいうセカイ系にみられる。そして社会関係が希薄化し、「肥大した自意識近辺の小さな世界に住む住人」が、いじめによって追い込まれたとき、それは逃げ場のない絶望へと繋がるのではないだろうか。

またいじめる側も同様な「肥大した自意識近辺の小さな世界の住人」であるとすれば、小さな世界で息を潜める住人の不安の裏返しとして、自らが排除される前に、誰かを排除するという神経質な行為であると考えられる。

このように考えると、重要なことは、1回性と反復のバランスである。強い自意識に追いつめられないように、適度に反復へと緩和することを学ばなければならない。それとともに回りに対しては「身近さ」という1回性の強度を持たなければならない。

そしてこのようなバランスを保つ方法として、小さな世界に埋没せず、いくつかの異なるチャンネルを確保することが有効ではないだろうか。




「フラット化する世界」と小さな世界への引きこもり


情報化社会では、流動性が向上し、容易にチャンネルを見いだすことができるように思うが、チャンネルはただ数が多ければよいということではない。尊重を見いだせる他者との関係性が必要である。

情報化社会では、大量の情報を処理していく必要がある。様々な出来事を1回性としてそのまま受け止めていては、認知限界によって大量の情報量の中でパンクしてしまう。だから反復へと回収し、カテゴライズしていく。このように反復への回収された世界は、流行りの言葉でいえば、「フラット化する世界」ASIN:4532312795)ということだろう。そして流動性の向上によって地域コミュニティなどの「身近」なチャンネルが解体される。

そしてさらには自身も「反復」へ呑み込まれてしまう。「なんのために生きているんだ」と問うとき、自らが蟻の群のただの1匹の蟻でしかないのではないかという不安であり、唯一の存在であるはずの自分が反復によって見いだせなくなり、生へ緊張が消失する。すなわち自分の存在への不安である。

首都大学東京准教授の宮台真司氏が面白い分析をしていたが、そもそも情報なるものは現実を希薄にしてしまう。

第一に、情報は勘違いを難しくしてしまう。昔は勘違いだらけだったからこそ夢を追い試行錯誤があった。情報に依って、「どうせ現実は−」という容易な断念は人間の想像力を減退させてしまう、と。

第二は、情報化は規範の輪郭を曖昧にしてしまう、と。昔は良いこと悪いことの境目がはっきりしていたが、今は昔は有り得なかった情報によって、・・・禁忌なるものが消滅してしまい、それを侵して超えるといった姿勢や行為の濃度が希薄となり人間の活力の低減に繋(つな)がっていく。

第三には、現実を入れ替え可能にする、と。かけ替えない体験だと思っていたことが、「そんなものはよくあることだ」といなされ、・・・水をかけられてしまう。

つまり自分の感性や情念にのっとった決断や選択の、自らの人生における比重がごく軽いものにされてしまうことで、生きるということの中での、人間としての積極性が殺(そ)がれてしまう。これは人間全体にとっての損失以外の何ものでもありはしない。

人生そのものが既視現象になってしまえば生きることそのものが無意味にさえ感じられてしまうだろうに。


「情報氾濫のもたらすもの」 石原慎太郎 http://www.sensenfukoku.net/mailmagazine/no54.html


ここでいう「情報が人生そのものを既視現象にする」とは自分の人生という1回性が反復へと緩和されることを意味するだろう。そしてその反動として、過剰に1回性を見いだそうと、自らの趣向の対象に埋もれた自意識近辺の小さな世界に引きこもるのではないだろうか。




モバゲータウンの薄気味悪さ


これは子供だけの問題ではなく、まさに現代人の問題である。チャンネルを求めて、大人たちがネットコミュニケーションへ向かったように、子供達がネットコミュニケーションに押し寄せいている。このような意味で2ちゃんねるというネーミングは絶妙である。大人達の2ちゃんねるmixiという女性たちの第2チャンネル、そして子供たちの第2チャンネルへの潮流が起こっている。

モバゲータウンは、開始9カ月で200万人のユーザーを集め、10代に圧倒的支持を受けているSNS&ゲームサイト。日記や掲示板の作成、アバター作成、メッセージ送受信、チャットなどといったSNS的な機能のほか、デコメールを無料ダウンロードでき、30種類以上のゲームが無料でプレイできるのが特徴だ。

mixiよりも速いスピードでユーザーを集めたという点に興味を惹かれ、登録してから約3週間。当初はカルチャーショックの連続で、正直「ドン引き」状態だったが、しばらく経って文化に慣れると、次第に引き込まれていった。

掲示板付きコミュニティー機能「サークル」も充実している。・・・サークルは、バーチャルな人間関係を生成する場でもある。「モバ彼」「モバ彼女」「モバ家族」「モバ学校」――モバゲータウン限定のバーチャルな人間関係が、サークルを通じて作られ、発展していく。

最も一般的なのはモバ彼・モバ彼女というバーチャル恋人で、メッセージ交換や掲示板・日記のコメントのやりとりだけで「付き合う」ようだ。「モバ彼募集」「モバカノ募集」といった書き込みは、友達募集系サークルでよく見られる。・・・モバ家族は、ユーザーが父母や姉妹、兄弟、祖父母、ペットなど家族の役割を分担し、家族みんなで仲良くコミュニケーションする、というもの。・・・モバ学校は、モバ彼・モバ彼女やモバ家族よりもさらに「おままごと的」だ。サークルの参加者を学生に見立てて、学校にある場やシチュエーションを使ってスレッドを立ててコミュニケーションする。

mixiGREEなどのPC向けSNSは、リアルのつながりをネット上に持ち込むことを目的とした構造になっており、コミュニティーにはオフ会準備用の機能も備わっている。一方、モバゲータウンは完全にバーチャル寄り。オフ会も原則として禁止されており、現実社会の人間関係を忘れられる点もヒットの要因になっているようだ。プロフィール画像アバターを使っていることも、“現実とは違うバーチャルな自分”を作り出せる要素になっていそうだ。


絵文字も空気も読めません 10代がハマるSNSモバゲータウンを28歳(♀)が探検した http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0611/27/news033.html

ここでいう「ドン引き」状態とは、濃厚さ(ディープ)への薄気味悪さである。しかしこのような薄気味悪さは、かつて人々が2ちゃんねるやオタクやコギャルに感じたものと同質もものではないだろうか。

すなわち私をわかってほしいという自意識過剰であり、1回性の強さである。これは、子供らしい自意識過剰、あるいはメディアリテラシーの教育がたりないためであるとも考えられるが、それ以上に「フラット化する社会」のなかで生まれた子供たちの一回性への想いがネットに押し寄せているのではないだろうか。

そして学校もこのような濃厚さな空間になり、そして闘争としていじめは発生しているのではないだろうか。




子供たちはネットをどこへ連れていくのか


ネットはこのようなコミュニケーション難民の強度あるチャンネルとなりえるのだろうか。彼らは、生まれてすでにネットコミュニケーションがあった世代である。彼らにとって、このような「子供ちゃんねる」はいかように意味をもっていくのだろうか。

GoogleWeb2.0ロングテールなどの「経済学」的な潮流もおもしろいが、やはりこのような「コミュニケション難民」の潮流こそがネットの力の源であり、そこにネット社会の未来が見えるのではないだろうか。

関連: モバゲータウンは次世代のミクシィになるのか?http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=1870

10代女子は“ホムペ作り”に夢中 http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0612/18/news012.html