なぜ貨幣交換は「政治ゲーム」なのか

pikarrr2007-01-20

ヴィトゲンシュタイン言語ゲームラカン象徴界


ヴィトゲンシュタインがいう言語ゲーム(規則に従う)とは、実践的行為(経験命題)の総体である。規則(論理命題)は、「規則に従う」という実践の反復の中で、実際に使える(プラグマティック)という判断によって、事後的に「硬化」していく。だから数学も、そして「痛み」でさえ、言語ゲームとして獲得していく。

ラカンにおいて、「去勢」とは、母親との想像的な関係から、父という第三者の介入によって、社会の一員になること、象徴界への参入」を意味する。そして第三者の介入とは、言語の獲得を意味する。

ラカン「無意識はランガージュ(ラング+パロール)のように構造化されている」と言ったが、それは言語規則(ラング)を学ぶことではなく、言語ゲームとは、日常会話(パロール)という実際の使い方(言語ゲーム)を学ぶことを意味するからだ。

父という第三者は、実際の父親ことではなく、大文字の他者である。言語(ゲーム)学ぶとは、超越論的他者(大文字の他者)の命令を無意識へ内面化することである。「規則に従う」ことに理由はない。ただ社会生活を営むために従うのである。




「欲望の場」としての言語ゲーム


このようなヴィトゲンシュタイン言語ゲームラカン象徴界は同様な意味をもつ。そしてラカンの欲望論は、言語ゲームの生成について示している。

人は「他者」を内面化することでしか、充足できない欠けた存在である。だから言語ゲーム大文字の他者)を無意識に内面化することで充足を求めるしかない。「みんなが欲しいものがほしい」大文字の他者の欲望を欲望する。ここに言語ゲームの強力さがある。主体は言語ゲームなくては、主体たりえないのであり、容易にそれを否定することはできないのだ。

しかしまた大文字の他者もまたは不完全である。だから人は大文字の他者言語ゲーム)の彼岸を望む。言語ゲームを逸脱すること(タブー)を望む。「禁止されるからやりたくなる」

ここに「欲望の場」としての言語ゲームの生成場面が見いだせる。人は完全な言語ゲームを欲望して、その彼岸を開拓していくことで、言語ゲーム代謝していく。




他の言語ゲームとの遭遇において欲望は表出する


だから数学も「痛み」も、必ず欲望的な意味がある。しかしそれは無意識にあり、当たり前なものとして表出しにくい。このような(無意識の)欲望的な意味が表出しやすいのは、他の言語ゲームとの遭遇の場面である。

言語ゲーム内では当たり前すぎて誰も疑問に思わないことが、他の言語ゲームとの遭遇において、疑われる。それは主体が主体であるという当たり前のことが疑われる狂気である。そして言語ゲームは立脚する明確な論理を持ち合わせてないのだ。

そして言語ゲーム間を調停するような規則は存在しない。そこに欲望が剥き出しになる。たとえば冷静な知の蓄積の場であるはずの学問でさえ、その最前線では、派閥争いという欲望が表出する闘争と化している。それは自らの言語ゲームを守るための闘争であり、ベンヤミンがいう「神話的暴力」*1である。

デカルト方法序説ASIN:4003361318)に示されたのは、旅人であるデカルトが様々な言語ゲームを渡り歩く中で、確かであると信じていた様々な規則が疑わしいものであることに気づいたことである。そして確かにものはなにか、という懐疑によって「我思う我あり」に至った。

デカルトが近代哲学の祖であると言われのは、まさに近代のボクたちの姿がそこにあるからだろう。近代において、地域的な言語ゲームの遭遇は、小さな「断絶」マルクスのいう共同体と共同体の間)をあちこちで露出し、「欲望の場」が表出している。




泥臭い「政治ゲーム」


マルクスは共同体と共同体の間でこそ商品交換は始まると言った。そして「商品が価値をもつか否かは、それが売られる(交換される)という「命がけの飛躍」にかかっている」という。このような「売る」立場に対して、「買う」立場の優位という貨幣交換の非対称性において、貨幣へのフェティシズムという経済という下部構造としての「資本主義の原動力」を見いだした。

科学としての経済学は、・・・規則体系の考察から始める。これは、マルクスが標的にした古典派経済学であろうと、のちの新古典派であろうと、同じことである。たとえば、新古典派は、各個人が最大限の利益を追求すると仮定し、彼らが競い合う「ゲーム」から、いかに均衡体系が形成されるかを探索する。・・・われわれは、人間(諸個人)を、最大限の利益を追求するものとして仮定することはできない。そのような仮定は、経済活動を規定する「規則」ではなく、市場経済という「行為の仕方」から想定された事後的な規則にほかならない。P62-63

マルクスの価値形態論は、古典経済学が「高慢に冷笑し」去った、貨幣の呪物崇拝(フェティシズム)を再び正面から見さだめようとする企てである。なぜなら、この呪物崇拝こそ、古典経済学が無視しているにもかかわらず、資本主義の原動力として存続しつづけているからだ。P111

古典経済学では二次的な媒介にすぎない貨幣が、いかにいかに神秘的な力をもつか、・・・一般的等価形態にある商品(=貨幣)は、いついかなる時でもどんな商品とも直接に交換しうるのに、他の商品は互いに直接に交換してないと言うことが、貨幣の神秘的な力源泉である。P129

貨幣蓄蔵の"動機"は、もの(使用価値)への欲望−他人の欲望に媒介されたものであろうとなかろうと−にあるのではない。諸共同体の外部に、流通が形成する"世界"において、「売る」という危うい立場をまぬかれようとする衝動にほかならない。・・・(貨幣が)「直接的交換可能性」(交換価値)をもつがゆえに、その「可能性」のみを蓄積しようとするところから生じている。・・・「蓄積」こそ、われわれに、必要以上の必要、多様な欲望を与えるのでである。P135-137


「探求Ⅰ」 柄谷行人 (ASIN:4061590154)

人は(命がけの)リスクを嫌う。人が「売る」という危うい立場をまぬかれようとする、ということにおいて、貨幣交換における「売る」という立場に固執するという「善意」を維持する必要はどこにあるだろうか。たとえば、力を行使し、略奪する。あるいは貢ぎ物を差し出し、貸しをつくることで(継続的な)友好関係を築くこともありえる。すなわち貨幣交換以外に、略奪、贈与互酬の方法論がある。

これは選択でなく、政治的戦略である。単に支配し略奪するのでは、秩序を継続性することむずかしい。これら3つの方法を戦略的に駆使することで優位に進める。これがまさに帝国主義と植民地、資本家と労働者、先進国と後進国など、共同体と共同体の間で行われてきた現実ではないだろうか。

現代の資本主義がそうであるように、帝国主義的に植民地を支配しなし、あからさまに資本家は労働者を搾取しない。(継続的な)友好関係を見いだしながら、経済的に支配する。支配と被支配者という二項対立でなく、フーコーがいう規律管理型権力のように、自らの言語ゲームを優位に進める「政治ゲーム」なのだ。

それはゲーム理論囚人のジレンマのようにルールを守る「善意」のゲームではなく、「取調官」に泣きつき、ワイロし、すべてをゲーム内に巻き込むもっと実践的で、泥臭く「政治ゲーム」である。




機械論的構造は「政治ゲーム」隠蔽する


またマルクスは、古典派経済学が貨幣の呪物崇拝(フェティシズム)を隠蔽し、合理的すぎるという。しかしマルクスの「経済学」がいう「資本主義の原動力」もまた、経済学的な貨幣交換に内在する機械論的な欠陥として語っている。

資本主義であって、貨幣交換に固執する意味はない。純粋な貨幣交換は存在しない。貨幣交換でさえも、欲望の場における「政治ゲーム」であり、貨幣の「買う」という優位性は、「原動力」そのものではなく、「政治ゲーム」を優位に進める重要なアイテムの一つとして考えなければならない。たとえば情報化社会、知識価値社会では、貨幣とともに知識であり、情報がフェティシズムの対象になっているのだ。

マルクスの資本主義であり、最近ならば、「帝国」、「フラット化」、あるは「グーグル化」など機械論的構造として語られるとき、「強者の欲望」であり、それが泥臭い「政治ゲーム」であるということが隠蔽されている。

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