なぜ「フラット化」は強者の欲望を隠蔽するのか 「フラット化」と欲望 その2

pikarrr2007-01-19

言語ゲームの強さ、象徴界の弱さ


言語ゲームにおける「規則に従う」とは自転車の乗り方を覚えるようなものである。ボクたちは自転車をどのように乗るか説明することはできなくとも、自転車に乗ることができる。このようにボクたちは日常会話を「規則に従う」ことで行っている。

言語ゲーム(規則に従う)は、一面で、ラカンが考えるように、変化するあやふやなものであることは確かであるが、ヴィトゲンシュタインが数学やパズルなどを例に上げながら、言語ゲーム(規則に従う)を基底として考えるとき、反復によって支えられた「確実性」の強さを感じる。

ラカン象徴界ヴィトゲンシュタイン言語ゲームの対比として考えると、これらは本質的に明確な境界があるわけではないが、反復の強度の差というイメージで対比することができるだろう。さらに「規則に従う」ことの反復によって「硬化」された「規則」は、外部記憶化されることで、科学的(帰納法、還元主義)な反復により「確実性」の強度を強め、「プログラム化」される。

反復による「確実性」の強度は以下の構図が示される。これは「反復←→1回性」また「身体←→心」の強度にも対応するだろう。

反復による「確実性」の強度


プログラム化(外部記憶) > 言語ゲーム暗黙知) > 象徴界(無意識) > 現実界(不確実性)




反復による知識システム


このような反復による「確実性」は一つの知識システムとしてとらえることができるだろう。共同体の外部(現実界)からやってくる不確実性(1回性)は、反復されることで言語ゲーム象徴界)の規則として「硬化」される。さらに外部へ記憶化されることで「プログラム化」される。このような循環において、過去のプログラムは書き換えられ、徐々に変更される。

ヴィトゲンシュタインも同様な知識像を示している。

経験命題が論理命題へと転化するというこの新しい論理概念から、ヴィトゲンシュタインが晩年に到達した独自の知識像が浮かび上がってくる。・・・「確実性」で描き出そうとしているのは、内部の明確な構造を持った命題体系という上部構造と、それを下で支え、同時にそれを産みだしている無数の原初的実践という下部構造の二階建ての知識像である。

そして上部構造に内在する構造的差異により、もともとは同じ経験的起源と持ちながらもある命題は固定され規則として働き、他の命題が流通する固定された通路を構成するのである。それは人間の思考と言語の運動にある固定した形態を与える。P378-379


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資本主義機械


このような知識システムは、特に近代以降には、科学技術として活発化した。科学技術とは、世界の不確実性を要素還元主義的に数量化することで、帰納法的に正確で、高速な伝達を可能にし、反復を容易にした。そして加速された反復によって「硬化」された科学的規則が積み重なり、科学技術体系プログラムが重層的に体系化されているのだ。

このような科学技術の進歩は、プラグマティックに世界の変容し、予測可能性を飛躍的に向上させ、安定した生存を確保する。ボクはこれを「予測可能性の壁」と呼ぶ。そして情報化社会において、「予測可能性の壁」は管理コントロール社会を達成し、世界を「フラット化」している。

貨幣という数量化による等価交換をベースにした資本主義システムも、同様な近代以降の知識システムであり、世界の「フラット化」を進めている。

このような資本主義システムは、古くはブルジョアジープロレタリアートから、グローバリズムにおける先進国/後進国、あるいは格差問題など、様々な格差を生み出すことが問題になっている。そしてこのような搾取の問題は、マルクスなどのよって指摘されているように、あるいは最近ではグローバリズムの格差問題として語られるように、まるで資本主義という機械の作動そのものが必然的に生み出す問題として語られる。




資本主義機械は存在しない


しかし重要なことは、資本主義も「フラット化」言語ゲームであるということだ。言語ゲームは決して機械なのではなく、行為者の内部への強い帰属意識や外部の排他意識がある。すなわち世界を自らの「規則」でフラット化(機械化)したいという「欲望」である。

ボクたちは貨幣の使い方を学ぶことで社会の成員となる。貨幣の使い方を学ぶとは、100円の商品は100円の貨幣と等価交換する、というごく当たり前の規則(プログラム)の習得だけではない。共同体内の他者へ道徳的な配慮としての使い方として、 たとえばお金とはどのよに使うべきか、お金を粗末にしてはいけない、お金持ちであることひけらかしてはいけないなど、を同時に学ぶのだ。これらは決して切り離すことはできない。

たとえばホリエモンのように、言語ゲーム(規則に従う)の外部(現実界)からやってくるものへの脅威は、貨幣プログラムの危機である以上に、いつも道徳上の問題として言及される。 純粋にプログラム化された貨幣交換機械は、経済学のテクスト上にしか存在しないのである。

たとえば柄谷は、マルクスを例にして、交換は共同体と共同体の間の「命がけの飛躍」によって生まれるという。「命がけの飛躍」であるということは、それらを調停するような「規則」は存在しないということであり、自らの言語ゲームへの愛着と他の言語ゲームへの恐怖である。

そしてそこで行われる交換過程では、良好な関係を維持し交換を続けようと言う長期的に視野にたった「贈与互酬」性と、騙してでもとにかく優位に進めたいという短期的な視野からの「略奪」性が混在し、行為されるだろう。

たとえば資本主義における労働力と賃金の交換においても同様な駆け引きが行われる。マルクスの想定とは異なり、ブルジョアジープロレタリアートの対立が解体しているのは、交換関係に会社組織への愛着というような「贈与互酬」性と、会社側の頭脳的な「略奪」が混在しているからだ。




「フラット化」が隠蔽する強者の欲望


フセインが裁かれ、死刑になったが、言語ゲーム論が示すのは、ブッシュが正しいか、フセインが正しいという絶対的な法は存在しないということだ。勝ち組となったブッシュ側の(言語ゲームとして)規則によって、フセインは裁かれたのである。

純粋な資本主義も、純粋なフラット化も存在しない。アメリカのように「世界の平和治安」のためというような、世界の「フラット化」の言説が隠蔽しているのは、強者の「欲望」である。

アメリカ、ブルジョアジー、先進国、格差問題の「勝ち組」など、勝ち組が「欲望」によって、優位に規則を作り、行使するのである。そこには「プログラム(道具)」を使う強者の「欲望」が存在するのだ。これはまさにベンヤミンがいう「神話的暴力」でもある。*1

この根拠[=我々が我々の物理学に対して持っている根拠]が説得力のあるものだと考えない人々に会ったとしよう。それはどのように想像できるか。物理学の代わりに彼らは神託を用いているのである(そのための我々は彼らが原始的だと考えている。)彼らが神託にうかがいを立て、それによって導かれるのは誤りか。−−−もしそれを「誤り」と呼ぶなら、我々は自分たちの言語ゲームから出撃し、彼らの言語ゲームと戦っているのではないか。

そしてこのように戦うことは正しいのか誤りか。もちろん我々はあらゆるスローガンで我々のふるまいを指示するであろう。(「確実性」 ヴィトゲンシュタイン


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ラカンはなぜヴィトゲンシュタインに留まらなかったのか


そしてラカンヴィトゲンシュタインに留まらず、「己の欲望に譲歩するな」というテーゼの元、決して到達しない他者(現実界の他者)へ回帰したのは、言語ゲーム暗黙知)→プログラム化(外部記憶)という「確実性」への道の逆走、象徴界(無意識)→現実界(不確実性)である。「フラット化」(機械化)への抵抗、「フラット化」(機械化)が隠蔽するものの暴露、そこに精神分析の倫理(正しさ)を求めたのだ。

*2