なぜこの異常な世界で平穏に生活を営むことができているのか

pikarrr2007-02-09

感動共有の可能性


たとえばコンサートで感動しみんな立ち上がって、手をたたいている。しかしはたしてほんとうに隣の人は感動しているのだろうか。あるいは私と同じ感動をあじわっているのだろうか。

コンサートはよくできた感動共有装置である。閉鎖空間、感覚をマヒさせる音量、かた寄せる他者との距離など、群集心理として他者に同期するようなマインドコントロールが起こりやすい心理学的な場である。

このような他者への同期は、最近、他者が痛そうにしているのを見たときに同じように痛みを感じたような脳波が現れるというミラーニューロンなるものが発見されて、生理的な裏づけがおこなわれた。しかしテレパシーではないので、共感を安易にこれに還元することはできない。




超越論的な同期


このように共感が困難であるならば、ボクたちはなんと孤独なのだろうか。

たとえば映画をみて感動したとき、興奮さめやらず、その感動を伝えたくて仕方がなくなる。だがいくら語ろうがつたわらないもどかしさが残る。そして同じような感動を味わったという他者にでくわすと、共感し、話がはずむ。

たとえば夕日を見たときの美しさへの感動にも、このような共感が働いているのではないだろうか。私に訴えかけるあまりの美しさに、それを偶然なものとして考えられずに、それが意図的なものであるという錯覚を産む。「この美しい夕日をつくった人は驚くべきことにまったく私と同じ感性の持ち主だ!」という感動。それは、そこに大いなる他者(超越論的他者)を感じるということだ。

人はいつも意図を読み込もうとして「前のめり」な状態にあり、「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」における「命がけの飛躍」を行っている。そして共感とは、このような超越論的な同期という錯覚によって行われている。このような「前のめり」ラカン「欲望」と呼ぶだろう。




「前のめり」のフリーズ


しかし意図を読み込もうとして「前のめり」である故に、超越論的な同期がうまく行われていないとき、人工知能の「フレーム問題」のように、無限の行為の可能性の前に人は「フリーズ」してしまう。これは、大げさでも、それほどめずらしいことではないだろう。

たとえば高級レストランにいったとき、美女との初デートをするときなど、新たな場面に出会うとき、自分でも思いも寄らないほど、ぎこちなくフリーズしてしまう。また初対面の人と会うときは、いつも新たな場面であり、緊張するものだ。

そこでは互いの言語ゲームの調整、同期の調整が行われる。そしてそれは価値観の差として闘争へさえ至ることもある。そこで重要になるのが「笑い」である。場(コンテクスト)の空気と親和性が高い「笑い」という表現は、言語ゲームが成立しているようにごまかす、同期を円滑にすることで、場を和ませることができる。*1




このような異常な世界で平穏に生活を営むことができている驚き


たとえばふつう電車の中で隣の人のことなどいちいち気にしないし、退屈な時間である。しかし電車の中でたまに独り言を話す人がいるとき、不安をかき立てられ、緊張がはしる。

この「独り言」の不安は、この退屈な電車の中の無関心がなにもしていない自然な状態などではなくて、見ず知らずの人と近接しているという特殊な状態であり、「みんなおとなしくしているから」という超越論的同期という能動的な行為によって支えられているということ、さらにこれらの回りにいる見ず知らずの人々が信用できるということになんの根拠もないという、異常な状態であることを暴露するからだろう。

これは強迫神経症的である。強迫神経症では、このような日常の何気ないことが、超越論的な同期がうまく作動せずに、異常な状態として浮上してしまう。たとえば食堂の食器がきれいに洗われているかと気になりだして食事ができない。回りの人々が自分の陰口を言っているように錯覚してしまうなどが起こる。

しかしこれは必ずしも大げさなこととは言えない。屋台など食堂の食器がどこまで衛生的だろか。以前韓国からの輸入キムチの不衛生が問題になったし、最近では耐震偽装不二家パロマなど、おそらく多かれ少なかれ、このような問題はどこにでもあるのだろう。

逆にヴィトゲンシュタイン的な驚きは、このような異常な世界で人々が平穏に生活を営むことができているということである。




日常という基底の強力さ


思い出すのが、インドネシア地震のときに写された津波被害の映像である。地震後、沖に白波がたった。どんどん近づいていく大波に気づき、海岸にいる人々はものめずらしげにぼーっと眺めている。そしてそれが危機であると気付いたときには波に飲まれ、ほとんどの人が助からなかっただろう。ここに「みんながそこにいるから」という超越論的な同期の働く日常という基底の強力さが現れている。

そして後期ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム論のラディカルさは、数学、そして科学技術さえもこのような超越論同期、「みなが信じているから信じる」と無意識の安心に支えられているということだ。我々の生存を確保する強固で快適な建造物、様々な社会システム、そして規則、法など。

たとえば古典経済学がただの価値尺度とした貨幣が超越論的な同期によって支えられていることを指摘したのはマルクスである。バブルがはじけ恐慌がおこれば、ただの紙切れになってしまうということ。最近ならばライブドア株の価値が一夜で暴落したようにである。
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