なぜ笑いは武器なのか

pikarrr2007-02-07

「笑い」とは「敵意のないこと」


腹の皮を捩(よじ)る、腹を抱える、笑い崩れる、噴き出す、大笑い、馬鹿(ばか)笑い、高笑い、愛想笑い、作り笑い、せせら笑い、薄ら笑い、鼻で笑う、苦笑い、忍び笑い、含み笑い、不適な笑み、氷の微笑、謎の微笑み、母のような微笑、思い出し笑い、独り笑い、照れ笑い・・・

人は実によく笑う。単に楽しいからでなく、様々な場面で笑顔を作る。動物の中で笑うのは人間だけであるが、後天的な能力ということではない。赤ちゃんは良く笑い、また相手の笑い顔を認識する。笑顔を作ることで、好意がもたれるようにふるまう先天的な弱者の戦略であると言われている。

またアメリカ人はより笑う。エレベーターなどで知らない人とともになり、目が合えば微笑む、という日本人にはないマナーもあるぐらいだ。これは、多民族で「ローコンテクスト」アメリカ社会では、何者であるかわからない他者と出くわし緊張がうまれる。そのときに「敵意がないこと」をあえて表現し、その緊張を緩和するためだと言われる。

「ハイコンテクスト」社会である日本で、そこまで他者への緊張はなく、むしろ知らない他者との間は無表情でいることが求められる。外国人にはこの無表情が落ちつかず、不安になるらしい。




「正しいセックス」は存在しない


動物のコミュニケーションと人間のコミュニケーションの違いは、たとえばベイトソンの学習論による分類がわかりやすい。

ゼロ学習・・・遺伝子、あるいは機械プログラム。インプットに対して同一反復にアウトプットを出力する。学習で習得するものではない。「断絶」は存在しない。

学習Ⅰ・・・条件反射のように、あるコンテクストの中で入力に対する出力が学習される。ただコンテクスト事態は学習されない。暗黙知はここに相当するだろう。「断絶」は身体的反射によって埋められる。

学習Ⅱ・・・コンテクストを学習することで、コンテクストの認識(状況判断)が可能になる。言語ゲームはここに相当するだろう。「断絶」はコンテクストによって埋められる。

学習Ⅲ・・・コンテクストの差異を知り、コンテクストの操作を学習する。「断絶」はコンテクストのコンテクストによって埋められる。すなわち「断絶」そのものを操作する


「なぜヴィトゲンシュタインのパラドクス」心身二元論を要請するのか」  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070202

動物は先天的な決定にしたがう「ゼロ学習」、あるはパブロフの犬のようにある条件下での条件反射を学ぶ「学習Ⅰ」によってコミュニケーションを行うとされる。動物がだれに教えられることなく、性関係を行えるのは「ゼロ学習」であるからだ。

それに対して人間は、「ゼロ学習」さらには、「学習Ⅰ」は難しい。人は「学習Ⅱ」として、自分の置かれた状況(コンテクスト)も共に学ぶしまうためだ。だから先天的に決定した性関係を行うことはできないし、条件反射的にも不可能である。

人はセックスをするためには学ぶしかないのだが、単に行為として学ぶではない。人は犬のように路上でも、どこでもセックスすることは禁じられている。行為とともに状況(コンテクスト)を学ばなければならない。しかしそもそも学ぶべき「正しいセックス」とはどこにあるのだろうか。ゼロ学習としての性関係を失ったとき、迷走し、靴だろうが、二次元だろうが、倒錯するしかないのである。

しかし倒錯とは、動物の正確なコミュニケーションに対して、人のコミュニケーションが壊れていることで、多様なコミュニケーションが可能になっていることの証でもある。




「微笑」という謎


後期ヴィトゲンシュタイン言語ゲームで示したのは、人間のコミュニケーションの壊れぐわいと、それでも多様なコミュニケーションが可能であることの不思議さである。たとえばヴィトゲンシュタインによると、「痛い!」という発話は、私の感覚の記述でなく、他者への表出である。人間において、「痛み」とは、それを体験し、その表現法をマスターしていくことで獲得される言語ゲームでしてかない。それがヴィトゲンシュタイン「私的言語は存在しない。」ということだ。だから先天的なゼロ学習としての拘束された動物の表現に対して、人間の表現は、多様で柔軟性をもつと言える。

「笑い」も同様に言語ゲームである。他者への「敵意のないこと」を示すというコンスタティブ(事実確認的)な意味をもつとともに、言語ゲームとしてのコンテクスト(文脈)に会わせたパフォーマティブ(行為遂行的)な意味をもつ。いわば、「敵意のない」という「笑顔」を一つの道具として、多様なコンテクストで行為が行われる。

たとえば「微笑み」が謎であるのは、コンテクスト(文脈)をどのように捉えるかで、無限の意味を持ち得るからである。




誤魔化すために「笑い」は生まれた


このような言語ゲームは、「笑い」以外に、「怒り」「泣き」などすべての表現においていえることである。たとえば「嘘泣き」とは、「泣き」という道具を活用したまさに言語ゲームであるし、人は怒るときになかなか我を忘れることはない。どこか演技的(パフォーマティブ)である。しかしその中でも、「笑い」ほどに、多様性があり、柔軟性をもった表現方法はないのではないだろうか。

先にラカンを引いて、言語ゲームはコミュニケーションの不可能性(断絶)を隠蔽することで成立しているだけでなく、不可能性があることこそが、言語ゲームの成立を支えているといった。

大文字の他者においても、この「断絶」の飛躍を完全に承認することはできない。「断絶」は決してふさがれることがなく、言語ゲームの成立は、「断絶」を隠蔽し、成立しているようにふるまうことによって成り立っている。そして「飛躍」は決して成功しない故に充実のイメージとしての「幻想」が欲望され続ける。

すなわちヴィトゲンシュタインのパラドクス」の不可能性、それこそが逆説的に言語ゲームの成立を支えているというジジェクのいうシニシズムである。


「なぜヴィトゲンシュタインのパラドクス」心身二元論を要請するのか」  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070202

人間のコミュニケーションがこのようなものならば、まさに「笑い」が必要とされるだろう。すなわち「笑ってごまかせ」である。さらには人間のコミュニケーションが壊れているということ、そして人間にのみ「笑い」があるということから、逆に「笑い」の起源の可能性が推理される。

すなわち人間が言語を手に入れ、多様性を獲得するとともに、壊れたコミュニケーションを隠蔽する機能として、人間は「笑い」を作りだした。「笑ってごまかせ」ではなく、誤魔化す(場を繕う)ことこそが「笑い」の役割であるということだ。




武器としての「笑い」


「痛み」「怒り」「泣き」などのその他の表現に比べて、「笑い」はその始まりから、言語ゲームというコンテクストと高い親和性をもって生まれた。それが「笑い」がコンテクストに柔軟に多様な表現を行えるという特別性をもつ理由である。

だから「笑い」は多くにおいて政治的である。「笑い」をうまく活用することで、逆に場の空気を操作することを可能にする。たとえば、「ユーモア」によって、友好的な雰囲気を作り出す。大げさに笑うことで、その場の価値を決定し、主導権に握るなど、操作を可能にする。たとえば商品の強引な勧誘などではこのような「笑い」がうまく使われる。人は「笑い」に対して笑って答えてしまうことで、場に拘束され抜け出せなくなる。

さらにはこのような笑いが武器として発揮されるのが、アイロニーである。アイロニーは、相手をコンスタティブ(事実確認的)とパフォーマティブ(行為遂行的)のダブルバインド状態におき、意味の宙ずりにする。たとえば皮肉なことをいいながらの、薄ら笑い、鼻で笑う、苦笑い、含み笑い、不適な笑み、謎の微笑みなどで、意味の決定を宙づりにして、相手を不安におとしいれる。

デリダ脱構築も同様な方法であるが、ベイトソンの学習理論では、言語ゲームというコンテクストを操ることを学ぶ次元、「学習Ⅲ」に相当し、人間に可能なもっとも高度なコミュニケーションである、とされる。

「空気を読む」と言われるが、壊れた人間のコミュニケーションにおいては、空気を読むことは無限後退にしかむかわない。それが「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」である。空気とは関わるものであり、関わらざるおえないものであり、そのときに重要になるのかまさに「笑い」である。

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