ネットの「群衆の叡智」の可能性とはなにか その1
群衆の叡智と単なる群衆心理
ロングテールとともに、昨年のキーワードとなったのが、ニューヨーク在住のコラムニストであるジェームズ・スロウィッキー氏の本のタイトル「The Wisdom of Crowds(群衆の叡智:本の邦訳は、『「みんなの意見」は案外正しい』)」である。
そんな群衆の叡智の壮大な実験に取り組んでいるのが、サンフランシスコにある米ディグ(Digg)だ。・・・情報が溢れる今の世の中で、自分が見たり聞いたりする情報(メディア)は、わずかな数の記者や編集者に依存している。そんなメディアを「民主化」しようというのが同社の社是だ。
インターネット上にあるメディアをすべて民主化し、ランク付けしようとするディグ。何かに似ていないだろうか。そう、グーグルの検索結果表示である。・・・グーグルは、ページランクと呼ばれる手法で、リンクされたページの質と量、リンクしたページの内容などを数値化し、膨大な行列計算をしたうえで、検索結果を表示している。グーグルは極めて技術指向性の強い会社なので、人間を介さずにユーザーが求める情報をランク付けして表示する。一方、ディグは、多数の人間の投票行動によって、情報をランク付けして表示するのである。今や、インターネット上のランク付けのノウハウは、企業のビジネスを左右する大きな問題にまでなっている。
さて、取り扱う情報の範囲が広がれば、ユーザーの範囲も広がる。ユーザーの範囲が広がれば、ますますDiggする情報の範囲が広がる。まさに、ディグのユーザーは群衆となっていくだろう。でも、その場合、群衆の叡智のクオリティーは維持できるだろうか。一般的なコンテンツになるほど、流行や感覚に左右される可能性は高い。群衆の叡智ではなく、単なる群衆心理を表したサイトになってしまうのか、それとも、群衆の叡智がページランクを凌駕するのか。ディグによる壮大な実験は続く。
群衆の叡智で、グーグルに対抗できるか http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20070302/120216/?P=2
「単なる群衆心理」とは異なる「群衆の叡智」とは、なんだろうか。ネットの一極集中化を利用することがそのまま「群衆の叡智」に対応することではないだろう。
マニア化と一極集中の二極化
ボクが映画よりも本がおもしろいというのは、個人的な趣向である。映画には映画ランキングに依存しないマニアがいるように、どのようなメディアにもランキングを越えたマニアはいる。現代の情報社会では全てを自ら選択する時間はない。人々はなにかに対してマニアであり、それ以外はランキングに身をゆだねている。情報化社会においてはランキング重視とマニア化の二極化が起きる。
そしてネットという情報のるつぼにおいては、よりランキングが重視される。そしてより顕著に、このような二極化(パーソナライズ(ロングテール)と一極集中)が起こる。
みんながおもしろいというものは確かにおもしろい。しかしそれよりもみんながそれほどおもしろいと思わなくても、自分にとってはものすごくおもしろいというものを一部において発見すること、そしてそれを共有している限られた人たちと交流できることが、ほんとうのおもしろさではないだろうか。そしてそれは場を育むというとても時間がかかる作業である。それは、一見なんの個性もないように見える小さな本屋さんの密やかなコミュニケーションのようなものであるのかもしれない。
ランキングという化け物を乗りこなすことができるのだろうか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070306
市場主義的な「コンビニエンスな解決」と「想像的なもの」としてネットの可能性
市場至上主義傾向の中で、ボクたちの解決策は、効率向上による低コスト化という「コンビニエンスな」方法に一元化されつつあるように思う。社会的な「問題」は開発課題となり、汎用的な商品となり、効率的に安価で提供される。コンビニエンスな快楽、コンビニエンスな繋がり、コンビニエンスな老後、コンビニエンスな環境問題策、コンビニエンスな死(現代の「自然死」が孤独死であるのは悲しすぎる。)現状ではこれ以上の問題解決策をボクたちは持っていないだろう。ボクはこのような一元化を、「お金があればなんとかなる社会」=「お金がなければどうしようもない社会」と呼んだ。
市場主義的な「コンビニエンスな」解決への一元化だけでなく、ボクたちはより多様な解をもつべきである。以前言及したように柄谷がいうように、社会は資本=ネーション=国家という3次元的な構造もち、資本による経済的な格差は、国家政策と共に、ネーションによって「想像的に補充され解消され」てきた。それはアルビン・トフラーの「プロシューマー(生産消費者)」にも繋がるだろう。
現在は、ネットにそのような役割が求められているのではだろうか。ネットの創発性を支える無償の労働の可能性は、Web2.0やグーグル化のような資本では組み尽くせない可能性がある。そこに市場至上主義による「コンビニエンスな」解決策とは、異なる新たなコミュニティのあり方が見いだせるのではないだろうか。
もはやボクたちは市場経済による効率向上による「コンビニエンスな」方法に依存しなければ生きていけない。しかしまた市場主義による自由競争は社会の不確実性を高め、格差を生む。
柄谷的にいえば、このような資本と国家とともに重要になるのが、ネーションという「想像的なもの」である。いわば、暗闇の中で動けない弱者たちが、「そっちはどうだ。大丈夫か」と互いに声をかけ、情報交換を行い、「予測可能性の壁」を拡張するように助け合う。ネットに求められる役割とはこのようなものではないだろうか。しかしこの例えは、宝物を獲得することのみを目的化にしている点で、市場主義的である。本当の宝物は宝物を探す中で生まれた他者との繋がりだった、という童話風な解もあるだろう。宝物(幸福)がなにかは、「開かれ」ていなければならない。それも「想像的なもの」としてネットに求められるもの一つだろう。
ネットは市場主義的「コンビニエンスな解決」以外のものを生み出せるか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070301
ネットは「想像的なもの(コミュニティ)」によって発展した
ボクが言いたいことは、柄谷的な3次元、<資本=国家=ネーション>において、資本が強い現代で、「想像的なもの」としてのネーション(コミュニティ)をネットが補完しているのではないか、そしてそれをいかにうまく機能させることが重要である、ということです。
結果的にネットがこれだけ短期間で発展したのは、資本主義を補完するためでも、それにかわる新たな経済システムとしてでも、あるいは監視社会のためでもなく、地域コミュニティや終身雇用的な会社社会のような前世代のコミュニティ(ネーション)の崩壊を補完するためだったのではないか。だから無償で労働が行われ、繋がりの社会性を求めるような傾向が現れるわけです。
もっといえば、ケータイも含めて、ネットへ「想像的なもの(コミュニティ)」が移動したために、地域コミュニティや終身雇用的な会社のような旧来のコミュニティの解体を早めたといえるかもしれません。それが、ネットこれだけ短期間で発展した大きな理由の一つではないでしょうか。だからもはやネットにおける無償の労働や、繋がりの社会性を求めるような傾向は切り離せません。
ボクがいいたのは、経済などないということではなく、経済は実体的なシステムで、ネーションは幻想である、ということに対して、経済もまた幻想的で、ネーションもまた実体的である、ということです。これが見えずにネットを語ると、経済学的経済がうまく機能していないネットはいい加減なもので、グーグルがそこに経済原理を導入した救世主というような、最近「ウェブ進化論」などで流行りの幻想に囚われてしますということです。
「経済」はどこにあるのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070302
質を求める人々の欲望がネットを作動させている
ボクが、「ランキング」に懐疑的なのは、これが質の量への還元であるからだ。ある記事を読み深く想い入れた「強い」ブクマでも、収集するだけの「後で読む」という後で読むことがまずないような「軽い」ブクマでも、その質は同じ1票という量に還元されてしまう。
これがディグ、グーグルも重視する「民主化」である。しかし民主化という自由と平等が、その始めから資本主義的であったことを考える必要がある。均質な労働力、均質な「効用」としての消費を生産するために「民主化」は生まれた。民主化は資本主義の原動力となり、人々は自由と平等の元に、量に還元された機械の一部として作動し、豊な社会を作りあげてきたのだ。
柄谷のいう社会の資本/ネーション(コミュニティ)は、量と質に対応するだろう。人は量だけでは生きていけない。量には「私」はいない。資本主義が発展する中でも、質は家族であり、地域コミュニティによって補完されてきた。そして現在、それらの質を求める人々の欲望がネットを作動させていると考える。ネットに質が上陸することでネットはこれほど成功し得た。だからグーグルが注目されたとしても、量を重視する以上、あくまで「資本」側から見たものでしかない。ネットの本質において、グーグルは端部の現象でしかないし、グーグルが行っていることは質を求める人々をサポートすることでしかない。ネットにおけるランキングとはそのようなものである。
「群衆の叡智」は質的な出会いによって生まれる可能性
たとえばブロガーは誰もが多くの人にアクセスしてほしいし、多くのブクマがほしいだろう。しかしだからなんなのだろうか。アフェリエイトで稼げるなどしれている。ネットにおける多くの人からアクセス、ブクマがほしいは「異性にもてたい」に似ている。多くの異性にもてたいのは、多くの異性と愛し合いたいということではなく、分かり合えるだろう恋人(達)に巡り会う可能性が増えるためである。
ボクたちが求めているのは量ではなく、少ない人数であろうと質のある出会いである。量は質的な出会いの可能性を広げるためでしかない。そしてネットの可能性としての「群衆の叡智」は、資本主義では効率化によって排除されきたような、質的な出会いによって生まれるのではないだろうか。
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