ネットの「群衆の叡智」の可能性とはなにか その2

pikarrr2007-03-08


質的な出会いとしてのネットの可能性とはなにか

ボクたちが求めているのは量ではなく、少ない人数であろうと質のある出会いである。量は質的な出会いの可能性を広げるためでしかない。そしてネットの可能性としての「群衆の叡智」は、資本主義では効率化によって排除されてきたような、質的な出会いによって生まれるのではないだろうか。


ネットの「群衆の叡智」の可能性とはなにか その1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070307

これを具体的に考えると、たとえばある問題に対して、住民投票を行う場合に、現在の民主主義では一人一票の権利を持ち、多数決を行うことになる。しかし様々な知見をもつ専門家と、特に問題意識もない住民が同じ1票で良いのだろうか。たとえばTVの歌審査番組などでは特別審査員は10点、一般視聴者1点という重み付けを持っているように、すべてを1票という量に還元せずにそこに質的な重み付けを行う方法もあるだろう。

この重み付けの問題は様々な倫理的な問題を含んでいる。誰に重みをおくのかですでにそこに意図が含まれてしまう、あるいは「言葉を持たない」弱者の意見が排除されるなど。

ここでの問題の本質は、質を公開する場がマスメディアに占められて、そこで選ばれたわずかな人しかが質を披露することができず、その一部の意見に投票が左右されてしまうということだ。そしてネットはいままで抑圧されていたようなこのような多様な質を公開することを可能にした。選挙そのものは一人一票で行うとしても、ネットは投票までの活発な質的な意見の交換、議論の場を可能にした。

これがボクがいう、資本主義では効率化によって排除されきたような質的な出会いによって生まれる「群衆の叡智」としてのネットの可能性の一例である。




ネットに出現した発言は馬鹿ばっかりだった


TVのデジタル放送などでマスメディアが行う視聴者参加型とは、テレビの向こうからリモコンを操作して画面に賛成票数と反対票数が集計されるという茶番であるが、それに対して2ちゃんねるの実況はあっさりと視聴者の生の発言を公開してしまった。この反応を直接、TV番組で公開することはできないほどに生である。

2ちゃんねるの名をメジャーにしたと言われる「ネオ麦茶事件」は犯罪者が2ちゃねらーだったということとともに、バスジャックがネットによって視聴者の生の声として実況されつづけたという衝撃的なものであった。これらは明らかにネットによって開かれた一つの可能性である。

しかし問題は簡単ではないだろう。2ちゃんねるによって暴露されたのは、ネットに求められる直接民主主義的な理想に対して、ネットに出現した発言は、馬鹿ばっかりだったということである。

ボクは2ちゃんねるのニュース+をよく利用するが、スレ立てを管理人のみが可能にしたことで、2ちゃんねる内でもまだ秩序ある板であるが、発言される内容がスキャンダラスなネタに偏り、すぐに中身のない1行レスによる興奮を共有しあうような祭りへと「群衆心理化」する。とても議論を可能にしているとは言い難い状況である。




はてなはなぜ直接的なコミュニケーションを抑圧するのか


日本ではブログは、もう少しまともな意見を言える場がほしい、まともな議論をできる場がほしい、という2ちゃんねるのカウンターとして発展したように思う。そのためもあってか、ボクは、はてなは直接的なコミュニケーションに怯えているように感じる。

直接的なコミュニケーションが活発化すればかならず2ちゃんねる化し、いまひろゆきが陥っているような運営側に様々な負荷が求められる。そのためにはてなは貧弱なコメント欄機能、ブックマークのコメントの100文字規制などで、直接的なコミュニケーションを抑圧し、2ちゃんねる化することを避けている。

その結果がいまのはてなブックーマックであり、最近言われているように当たり障りがなく、読まないだろうがとりあえずブクマしとけという「情報まとめ」のみがピン留めされてしまう。これもひとつの「群衆心理化」だろう。2ちゃんねる「群衆心理化」を改善するためにうまれたブログが結局、ブックマークという「群衆心理化」したということだ。




日本のディグ(Digg)としての2ちゃんねる


もはやブログに2ちゃんねるのカウンターとしての意味づけはないだろう。米ディグ(Digg)が取り組む「情報が溢れる今の世の中で、自分が見たり聞いたりする情報(メディア)を民主化し、ランク付けしようとする」という試みは、日本でははてなのブックマークが対応すると言われるが、むしろ2ちゃんねる的だと思う。ディグがより広まれば、群衆心理化するのではという心配は、まさに2ちゃんねる化することであるし、そうならざるおえないように思う。

2ちゃんねる2ちゃんねるで質的は発言を救うために、連続投稿規制や、ID表示、さらにはテーマを細分化し、板数を増やすなど対策を進め、ある程度成功しているように思う。だからなおさらブログはその位置を問われつつある。雑誌の裏紙のような思想のない「情報まとめ」がブログのオチではもはやその存在意義が疑わしい。




ネットにおける量と質の間に「群衆の叡智」の可能性は宿る


最近ならWed2.0とロングテールとして注目されたように、一極集中的な量とマニア化の質の間の反復はネットの特徴であるように思う。そしてこの間にこそ、「群衆の叡智」としてのネットの可能性があるのだろう。それは今後も活発に反復されつづけるだろう。ネットにおいては、質的なパーソナライズが動力であり、ある程度生まれた量による一極集中化は事後的に生まれるが、この一極集中という創発的な化け物は現れては消えるものでしかない。

現代の情報社会では全てを自ら選択する時間はない。人々はなにかに対してマニアであり、それ以外はランキングに身をゆだねている。情報化社会においてはランキング重視とマニア化の二極化が起きる。そしてネットという情報のるつぼにおいては、よりランキングが重視される。そしてより顕著に、このような二極化(パーソナライズと一極集中)が起こる。


ランキングという化け物を乗りこなすことができるのだろうか  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070306

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