なぜ「ネットカフェ難民」という「神話」は語られるのか

pikarrr2007-05-08

ネットカフェ難民は演出か


「愛・蔵太の少し調べて書く日記」[ネタ]ネットカフェ難民なんてただの報道の演出です」http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070506/nanminがおもしろい。ネットカフェ難民が演出かどうかは別にしても、誰もがなにかあやしい感じをもっているのではないだろうか。それは、先のエントリーでも書かれているが、ネットカフェに泊まるぐらいなら、ボロアパートに住むのは難しくないだろう。現にボロアパートは存続し、棲んでいる人々がいるわけだし。あるいは家族はいないのか、一種の家出であり、貧しさとは関係がないのではないか。

最近は格差、ワーキングプアが語られるが、これらの議論でも同じような議論がある。貧しいといっても、世界の貧困状況に比べれば、たいしたことがないということだ。日本では、下流という人々がTVなどの電化製品は一式持っていることは当たり前だろう。世界的な貧困では、明日の食べるものがないような状況がある。




ネットカフェ難民という「神話」


しかしこれらを比較することに意味があるのだろうか。日本でいう貧しい人々と世界的な貧しい人々では質的な違いがあるように思う。たとえば世界的な統計によると孤独を感じる子供は、日本人がダントツに多いということだ。このような日本の閉塞感は「貧しさ」だけでは語れないだけでなく、むじろ「豊かさ」からきているのだろう。

物質的に貧しい社会では、商品の多様性は制約され、「ほしいものはお金で買える」と思えるほどに市場は成熟しない。このための他者との助けあいが重要になる。他者との助けあいの関係とは、封建社会などのように社会的な拘束を強いる。これを現代的に個人の自由の拘束とも考えられるが、生まれながらにそれが当たり前であれば、現在人が想像するようは抑圧ではないだろう。

それに対して、物質的な豊かな日本では、市場社会が成熟し、お金さえあれば、「ほしいものは買える」と思えるほど、他者との助けあいのような依存は必要としない。だから日本の豊かさとは、生存のための物質的な豊かさではなく、他者と助け合う必要がなく、生きていけるだけの豊かさである。それは、ファーストフード、コンビニになどに象徴される他者回避社会である。それは他者に干渉されない個人的な自由であるが、また孤独である。

ネットカフェ難民が演出かどうかではなく、特に日本の「貧しさ」ネットカフェ難民という「神話」で象徴されるのは、ネットカフェが、他者回避社会の象徴であるからだ。(最近ではマック難民もいるらしい。)日本の「貧しさ」は、世界的な貧困である物質的な貧しさではなく、他者依存しないですむような生活を送るための「貧しい」である。ここに自由でなければならないためにお金に拘束されるという閉塞がある。そして少ないお金で他者依存しない生活をするために、もっともコストがかからないことの象徴として「ネットカフェ」がある。




日本の「貧しさ」にはハングリー精神がない


日本の70年代ごろまではそうだったが、貧しさにはハングリー精神が付き物だった。今は貧しいが、いつかはのし上がってやる。いまの中国の驚異的な成長を支える活気には、このようなハングリー精神がある。彼らはほんの少し前まで、物質的に貧しかったからだ。いまの億万長者も、子供の頃は必ず貧しかった人々である。そしていまも多くの物質的に貧しい人々がいる。

歴史的にみると、世界的に反映した国々はその後、衰退していった。近代なら、イタリア、ポルトガル、スペイン、大英帝国などなど。ここには成長曲線がある。成長し繁栄し衰退する。成長で作りあげられた「システム」は繁栄を支えるが、その後その「システム」の出来すぎた強固さ故に、慢性化し衰退していく。アメリカが繁栄を長期化させているのは、移民を受け入れ、絶えず「システム」を新陳代謝させているからだといわれる。すなわちハングリー精神のある「貧しさ」が生まれ続けている。

ネットカフェ難民で象徴されるような日本の「貧しさ」には、ハングリー精神がない。日本もこのまま衰退していくのだろうか。大前研一のいうように将来、中国経済圏の一つのなる可能性は高いのではないだろうか。

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