なぜセックスレスは性衝動の減退を意味しないのか

pikarrr2007-05-31

性関係はストレスのはけ口の面をもつ

セックスレスカップル34.6%


日本性科学会「特殊な事情が認められないにも拘わらずカップルの合意した性交あるいはセクシュアル・コンタクト(ペッティング、オーラルセックス、裸での同衾など)が 1ヶ月以上なく、その後も長期に亘ることが予想される場合」セックスレスと定義しています・・・「この1ヶ月間は、セックス(性交渉)をしなかった」は39.7%。日本性科学会の定義とは幾分異なりますが、セックス経験なしをも加えますと全体で48.1%となっています。

調査対象者には未婚者も既婚者もいるわけですから、セックス経験のない人がいるのは当たり前です。ただ婚姻関係にある人であれば、入院している、出張中などの特別な事情がなければセックスがあって当然だろうということでセックスレス割合を算出してみますと34.6%という結果を得ました。

2年前に実施した調査では、婚姻関係にある者の31.9%がセックスレスでした。さらにさかのぼって2001年に朝日新聞社がインターネットで行った「夫婦の性、1,000人に聞く」では28%だったことからすれば、わが国におけるセックスレス傾向は一段と進行したことになります。

http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/women/kitamura/kitamura/news/20070412org00m100037000c.html

そこそこの肩書きがあるひとが痴漢などでつかまったりしているが、あまりに軽率で驚いてしまう。このような傾向の理由の一つは、性関係がストレスのはけ口の面をもつからだろう。強いストレス下では性的な対象を目前にすると性的な衝動が生まれる。それを実行に移すことは少ないとしても誰にも経験があるのではないだろうか。

このような性衝動は本能的なものというだけてなく、社会的タブーであるという状況に支えられている。タブーを侵すということそのものがストレス緩和の効果をもつ。タブーとは社会的な拘束が働いてはじめてあらわれる。許されるがあることで「禁止」があらわれる。ストレスとはある種の拘束力であり、その反動として許されることの外部(禁止)への衝動が生まれる。

これは別名では「好奇心」と言われる。「アダムとイブ」パンドラの箱の神話では「好奇心」は人間創生として語られるように人間にとって根元的なものとして語られている。人間の成功としての多くの創造性やフロンティア精神も同様にタブーへの衝動をもとにしている。

しかし現代のストレス社会では、その衝動は、痴漢だけではなく、万引きやいじめ、セクハラなど、弱い部分へ向かう傾向がある。




性衝動は「性的退却」の外を目指す


そもそも社会において性そのものはタブーの位置におかれてきた。現代において性関係が解放される傾向にあるとしてもそれはかわらない。性関係はいつも身近にあるタブーでありつづけり、そして人間関係の中で生まれるストレスの向かう先であり続けた。そしてそれが(男尊女卑的な)「女性」という位置を多くの面で作ってきた。

ストレス社会といわれる現代においても、性関係が人々の衝動が向かう方向でありつづけることには代わりがない。それは、性産業が氾濫しても代わりがない。性関係のニーズがタブー性にあるということは、性への衝動は性産業が提供する性関係の外を目指す運動としてあり続けるからだ。

たとえば、オタク傾向のように、ロリやフェチのような倒錯的な傾向として氾濫し、あるいは女性ではファション的な露出などとして現れる。これは単に性交渉の相手が見つからないということではない。たとえは痴漢に妻子がある場合があるように、タブーという非日常性が重要になる。

だから最近、夫婦間や独身者などで言われるセックスレスに象徴される性的退却」は、性衝動の減退を意味しない。むしろ性関係の氾濫が、夫婦や恋人の性関係を社会的で陳腐なものとして、性衝動をそのような社会的な関係の外(タブー)へと向かわせているのではないだろうか。




オタクの「萌え」の性的な健全さ


さらには、オタクの「萌え」などでみられる性関係の傾向の一つは、性衝動を社会的な関係の外(タブー)へと向かわせているというよりも、氾濫する性関係の中でむしろ懸命にタブーという防波堤をつくりだそうとしているように見える。タブーなき性の氾濫からタブーを守ろうとするように。

たとえば辻ちゃんのあっけらかんとして、でき婚会見をみてファンが裏切られたと感じたとすれば、性氾濫から懸命に守り通した性的なタブーとしてのアイドル(偶像)という防波堤を辻ちゃんみずから壊したということへの裏切りだろう。なぜならこのタブーをつくりだす(共有しよう)という行為により、一つの「愛」あるコミュニティが形成されているのだから。

オタクの萌えも同様な性関係の運動がみえる。性関係が氾濫する現代において、性衝動的な犯罪に陥らずに、性関係へ「健全」に没入するための在り方と言えるかもしれない。新たなタブーの形成という「愛」がまわりからみると不気味にみえたとしてもだ。