なぜゴミ屋敷住人は滑稽なのか  松本人志初監督作品「大日本人」

pikarrr2007-06-07

「ゴミ屋敷住人」のこだわり


「ゴミ屋敷」というのがある。どこからかゴミを集めてきて、家に詰め込み、近隣に悪臭を放つ。彼らゴミ屋敷住人の特徴は一人暮らしの孤独な老人である場合がほとんどである。彼らの心理を想像すると、彼らは自分なりのあるこだわりをもっているように思う。たとえば「最近の人はものを大切にしない。」あるいは「どこでもゴミをすてる。」「だから私がものを大切にする見本をみせるのだ。」というような。

彼らはこのような頑固なこだわりのために社会から孤立したというよりも、小さなこだわりが誰にも振り返られないという孤独の殻の中で人知れず凝縮されたと言える。そしてそれは一つの暗黙のパフォーマンスであり、誰かにかまってほしいシグナルでもあるが、簡単にほどけるものではない。




<以後ネタバレあり>


松本人志初映画監督作品大日本人


今話題の松本人志初映画監督作品大日本人http://www.dainipponjin.com/)を見た。松本扮する大佐藤は大日本人である。大日本人とは定期的にやってくる怪獣と戦うために巨大に変身することができる種族である。日本に伝統的にいた大日本人は昔は尊ばれたが、いまは落ち目で人々から疎ましく、みせものになっている。大日本人天皇、あるいは軍隊の比喩と言われる。映画はドキュメンタリータッチで社会から孤立した、うだつがあがらない大佐藤の日常と、怪獣との戦いが描かれる。

松本の一つの笑いのパターンは、このような社会的に孤立し、偏屈化した弱者がもつ狂気を滑稽さに描くことにある。今回の映画大日本人で松本が演じる大佐藤もまさにその流れであり、まさに「松本ワールド」が展開される。

狂気は滑稽である。狂気とは社会の外部にある異質であり、普通ではないからだ。それがみずからに及ばないかぎり、すなわち安全な内部からみれば滑稽である。このような松本が多々演じる理不尽なおじさんの滑稽さは、笑いの王道である。

大佐藤は、インタビューの中でこだわりを口にし、そしてちょこちょこ小さなセコイうそをつき、プライドを保とうとする。逃げられた女房が連れて行った自分の子供に好かれ、1ヶ月に一度会っている。あるいは「腰には広告を入れないんだ!」というよくわからないこだわりを主張するが、次の場面ではしっかり巨大化し腰にべたな広告が入れられているという、腑甲斐なさはに観客の笑いをさそう。さらにプライドの最後のよりどころである、かつての栄光という伝統を象徴する四代目大日本人のおじいさんが認知症のまま巨大化してしまう。。




ゴミ屋敷住人が滑稽なのか?排斥する社会が滑稽なのか?


しかし松本の笑いの天才は、そのような滑稽な人を描くことにだけあるのではない。クライマックスはほろ酔いで気分が大きくなり、大日本人だよ!」という雄弁に語る大佐藤であるが、それが実は仕掛けであり、気分よくなり寝たところに無理矢理に電流をかけられ巨大化される。それは視聴率のために敵と戦わされるため、さらには視聴者は大日本人がぼこぼこにされるのを期待しているのだ。

巨大化する、怪獣がせめてくる。この異常な非日常性さえにも麻痺し退屈した大衆。暴力的に大佐藤を巨大化させて殺されることを楽しむ大衆。社会的に孤立した狂人を描きつつ、このときに暴露されるのは、正常、大衆という日常に潜む狂気である。

ボクの好きな松本のコントに、新居に引っ越した家族と、昔の家においてきぼりにされた捨てられた犬のコントがある。犬は家族が悲しんでいるだろうと、はるばる引っ越し先を見つけだし、家族のもとにたどり着く。これは美談であり、犬は褒めてもらおうと必死である。しかし家族はあえてその犬が新居に似合わない汚い犬だと捨てたのであり、「善良な」家族は後ろめたさで犬に来られて迷惑とはっきり言えない。それを回りくどく話す、お金をそっと渡すなどして、犬に自らわからそうとする。犬のボケさ加減とともに、「善良さ」故に見え隠れする残酷さ(狂気)が緊張であり、滑稽なのである。

あるいはコント「トカゲのおっさん」での、トカゲのおっさんという非日常な存在において、狂気であるのは誰か?ゴミ屋敷住人が狂気なのか?ゴミ屋敷住人を生み出し排斥する社会が狂気なのか?完全な「内部」など存在せずに狂気はいつも身近に、そしてみずからの中にある。

巨大化、怪獣との対決という設定は、非日常のメタファーであるとともに、それさえも日常として取り込み、さらなる非日常を望むことにこそ狂気があり、笑いがある。この切り取りの絶妙にこそ松本の天才があり、今回も一定の成功を収めている。




笑う観客自身もまた狂気の一部である


最後の「実写」には賛否両論ある。アメリカの象徴であり、正義の象徴であるヒーローたち突然現れ、大日本人の敵である(北朝鮮のメタファーとされる)怪獣を倒すという、日本のおかれる国際情勢の縮図を暗示させると言われる。しかしそのヒーロー達の攻撃が「実写」として、リアルなリンチさながらに描かれる。ここで松本は国際的なメッセージを伝えるためではなく、正義、正常、常識に潜む狂気をさらに「反復」している。

さらにこの「実写」への転換によって、それまで「松本ワールド」を楽しんでいた観客は一気に「引き離され」、気が付くと、エンドロールが終わって、劇場の明かりがつく仕掛けになっている。この強引な「引き離し」に不快になった観客も多いのではないだろうか。それはまるで大佐藤を笑っていた観客自身もまた狂気の一部であることを、知らしめるようとするかのような、あまりに暴力的な松本の作戦である。はたしてそこまでする必要があったのか、は疑問であるが、初監督作品としての気負いからくるやや過剰な演出だったようにもおもう。

映画大日本人は、必ずしもみなが楽しめるものでなく、松本好きのためのカルトな映画ということだろうが、収穫は「松本ワールド」が映画表現としてなりたち、今後も「いままで見たことがない」世界を広げる可能性をしめしたことだろう。