「なぜCanCam的「めちゃモテ」のひとり勝ちなのか」
「エビちゃん」という新しい「正しさ」の圧力
通勤電車付近というのは、殺伐としてむさ苦しいものである。そんな中で、いまならばエビちゃん風など流行りのファッションをしている女性を見つけると、なにかドキッとするものだ。単にかわいい女性というよりも、流行りのファッションを身にまとっていると、それだけで引かれるモノがあることを感じる。
これは、そのファッションのもつ魅力であるとともに、そこに新しい「コミュニティ」を見るからではないだろうか。そのファッションを指示する多くの若い女性たちという「コミュニティ」であり、そこに新しい「正しさ」がある。その「正しさ」は漠然としたボリュームを暗示する「コミュニティ」という圧力として働くある種の虚像であり、だから早すぎても、遅すぎるてもダメなのである。
「なぜCanCamの「ひとり勝ち」なのか」
と、考えていると、CanCamの「ひとり勝ち」状態について、女子大生の意見をもとに分析したおもしろいエントリーを見つけた。
めちゃモテ日本(内田樹の研究室) http://blog.tatsuru.com/2007/06/27_1049.php
現代の若者たちの一部は依然として「オレはオレ的にオレがすごく好き」という自閉傾向のうちにとどまっているが、トレンドのメインストリームはどうやら「みんなにちょっとずつ愛されたい」方向にゆっくりと舵を切っている。「わたし的には、これがいい」という自己決定を断固として貫くことが個人にとって最優先する、という考え方が生存戦略上かならずしも有利ではない、ということについての国民的合意が今形成されつつある。
社会的リソースを競争の「勝者」に優先的に分配する「グローバリゼーション・システム」においては、自己責任でシティライフを享受できるのは、「強い個人」に限られた。・・・結果的に「自分程度の才能では、いくらじたばたしても社会的勝者になる見通しは薄い・・・」という痛苦な事実を先行世代の「負け」ぶりから学習したより若い世代は、「強者が総取りする」競争システムよりも、「弱者であっても生きられる」共生型社会の方が自分自身の生き残りのためには有利だろうという判断を下した。
「周囲のみんなからちょっとずつ愛される」結果的に選ばれたのが、このCanCam的「めちゃモテ」戦略である。みんなに愛される、ラブリーな女の子になること。・・・私はCanCam型の「みんなに愛されるラブリーな女の子」志向は、そのふやけた外見とはうらはらに、実は私たちの社会がより生きることがむずかしい社会になりつつあるという痛ましい現実をシビアに映し出していると思う。
CanCamの人気は「めちゃモテ」戦略にあるらしい。ネオリベラルな「グローバリゼーション・システム」では、「オレはオレ的にオレがすごく好き」という自閉傾向は下流にいたることを学習した若者が、「みんなにちょっとずつ愛されたい」方向にゆっくりと舵を切っている、ということだ。
たしかにエビちゃんって、タレントして特別美人という感じではない。ただファッションに身を包むと、とても魅力的になる。これは逆にいえば、誰でもそのファッションを真似ることで、エビちゃんのようにかわいくなれる可能性がある、という受け入れやすさがあるように思う。
彼女たちは「エビちゃん」で居続けられるのだろうか
このCanCam的「めちゃモテ」戦略の分析は、ボクが指摘した人間関係の「感情労働」 化に深くつながるように感じる。人間関係の「感情労働」 化とは、本来の感情を押し殺し、場に適正な感情を演出し、人間関係を円滑にしようとすること。さらにはエビちゃん化とはファッションの「マクドナルド化」であるのかもしれない。
「感情労働」とは働き手が表情や声や態度でその場に適正な感情を演出することが職務として求められており、本来の感情を押し殺さなくてはやりぬけない仕事のことだ。ここにきて、この「感情労働」があらゆる職種、さらには、社会全体が「アーキテクチャー化」するなかで、人間関係が「感情労働」化しているといえる。
このような「感情労働」の時代は、ボクが言及した社会の「アーキテクチャー化」と関係するだろう。社会の「設計事項」が剥き出しになると、先生と生徒、医者(看護婦)と患者などの、様々な道徳、習慣、地域的に支えられていた社会関係が、アーキテクチャーとして剥き出しになる。そして社会がアーキテクチャー化するからなおさら、失われつつある「繋がり」(ネーション的なもの)を過剰に担わされ、そのギャップに「感情労働」は生まれていると言えるだろう。
そして社会の流動化の大きな潮流の中で、アーキテクチャー化、感情労働化は、「マクドナルド化」へ向かう。マクドナルド化は儀礼的無関心という不干渉を積極的にとりこむことで、居心地のよい空間サービスを提供する。あいまいな価値観による軋轢が貨幣交換という関係により代替される。学校にクーラーを入れるか。金を払えば優秀な教師、空調完備がえられる。そして規則に反すれば、契約違反で排除される。市場原理の導入である。
なぜ「感情労働」は「マクドナルド化」によって対処されるのか
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070611
しかし疑問は、「生き残りのためには有利だ」と学習しても、彼女たちはCanCam的「めちゃモテ」の位置に居続ける、「みんなにちょっとずつ愛される」ことに耐えられるのだろうか、ということだ。彼女たちはどこで「私だけ」を「発散」させているのだろうか。とても興味がある。