なぜ「中年童貞」は風俗にいかないのか?

pikarrr2007-06-27

柳原可奈子のおもしろさ

「気になっちゃうカンジですかぁ」「ぜ〜んぜん、合わせちゃってみてください」――こんなフレーズのちょっと(?)おデブな女性お笑い芸人をご存じか。トヨタ試乗促進キャンペーン」さくらやのCMのあの子と言えば、ピンとくる読者も多いに違いない。

気になっちゃってるオジサンにお教えしよう。名前は柳原可奈子(21)。・・・得意ネタは「ショップ店員」。冒頭のようなギャグを連発して、「いる、いる。こういう子」と多くの共感を誘った。

http://news.www.infoseek.co.jp/entertainment/story/25gendainet07023045/

柳原可奈子が人気らしい。ボクもけっこう好きなのだが、よく考えると「オタク」をパロったものは多くあるが、「ギャル」をパロったものはあまりなかった。「オタク」に負けずに特徴的なのになかったことは不思議だし、新鮮である。

ファーストフードなどにいくと、数人のギャルが集まって、ビックリするぐらいでかい声で話している。その会話はテレビの暴露番組並におもしろかったりする。「どの子がだれと「ヤッた」とか、風俗系のお店で働いた話などなどもう怖いものなしである。

「オタク」などが社会的な「弱者」のイメージであるとすれば、彼女たちは怖いモノ知らずの「強者」のイメージである。彼女たちの前では、だれもがどこかたち打ちできないところがある。そしてコメディの鉄則として、「強者」を嗤うのはおもしろいのだ。




恋愛資本主義と中年童貞


現代のギャルが「強者」であるのは、恋愛資本主義の上流にいるからという話がある。恋愛資本主義とは、簡単にいえば、「恋愛の商品化」ということだ。そしてこのような文脈の中で、「弱者」としての「オタク」「中年童貞」が語られる。

中年童貞…なぜ生まれる? 恋愛資本主義の肥大化
http://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/070624/wdi070624006.htm


興味深い本が登場した。その名も『中年童貞』(扶桑社新書)−。あからさまなタイトル通り、中年にいたるまで性交渉の経験のない男性の存在と実像を紹介して、中年童貞の生きる道を模索する。・・・女性との性交渉を望みながら、なぜ中年まで果たせない男性が生まれるのか。個人に起因する問題も大きいだろうが、恋愛資本主義に覆われた日本女性の意識にも原因を求めることができそうだ。

日本では見合い制度の崩壊と出会いの機会の増大で、恋愛=結婚が完全な自由競争となったが、その半面、異性を魅了する「恋愛資本」を多く持つ者が異性を独占する状況が生じた。・・・現代女性について「男性に対し高い要求水準を掲げ、自分からけっして折れようしません」と嘆く。

なぜ女性は“高飛車”の姿勢を貫くのか?本田透氏が『萌える男』で興味深い分析をする。「80年代に、フェミニズムと空前のバブル景気がたまたま同時に勃興(ぼっこう)したため、フェミニズムがもたらした女性の経済的・精神的自立の流れと、バブルに後押しされた飽くなき消費活動への欲求とが不幸にも結びついてしまったのが、『恋愛資本主義』システムの肥大化の原因なのではないだろうか」

原型は80年代の社会、経済動向により形成されたというわけだ。自分の欲望に忠実で妥協をしない女性像は、90年代のテレビのトレンディードラマや雑誌を通じて、若い女性に浸透していったといえる。




商品に還元されない「恋愛」の力


しかし本当に恋愛が商品化しているならば、それは資本主義経済における多様な商品の一つでしかないのではないか。たとえばオタク趣味商品であり、おじさんのゴルフ用品であり、おばさんの韓流商品であり、おねんさんのブランド品など。その中で「恋愛」が特別である理由がない。

さらには「中年童貞」はお金でなんとかなるのではないだろうか。ぶっちゃけていえば風俗にいくなど童貞を捨てる方法ならいくらでもあるのではないか、という素朴な疑問がわく。だから「中年童貞」とは性行為を行ったことがない中年という事実ではなく、ある種の「精神的な言葉」ではないだろうか。

資本主義経済のもとで豊かになり、多様な価値を楽しむことができる中で、それでもなぜ人々は「恋愛」に引きつけられるだろうか。それでも「ギャル」恋愛資本主義の上流にいて、「童貞」下流にいることが、社会的な強者/弱者として現れるということは、「恋愛」が商品化されているとしても、単に商品に還元されない力をもつということではないだろうか。

さらには多様な価値を楽しむことができるようになっているからこそ、商品に還元されない「恋愛」が重要視されている面があるのではないだろうか。




なぜ「女子高生」は社会的な強者なのか?


ボクは以前、「女子高生は社会的な「強者」である」と書いた。多様化する価値の中で、「流行りモノ」に強いという新たな価値を生み出すこと。しかしまたこの「強者」は男尊女卑的な価値への社会圧による「弱者」への「許し」でもあるのではないか。ギャルがいかに「強者」であるといっても、彼らが「かわいくあろう」「性的であろう」ということは、封建的な女性像、さらには「頭が悪い」、幼児性という「弱者」の位置へと縛られている/望まれている。それは先進国でもダントツに低い女性の進出率にも現れているだろう。

現代、人々は多層なメタ的言説にさらされている。たとえば誰かが「それは〜である。」といえば、それはその言葉のままの意味ではない。・・・メタ的言説を解読するには、絶えず新しい情報を入手し続けなければならない。誰もがそのような情報に疎いために、排他的な劣等感を味わう場面に出くわしているだろう。たとえば、世界地図をイメージできない女子高生よりも、いまだにナウいなどの言葉を使っているおじさんの方が、社会的な不適合者という排他性を味わう可能性が高いのである。

しかし「女子高生」が社会的な強者となりえている理由は、逆説的に彼女たちが社会的な弱者であるためだ。現在の男尊女卑社会において、彼女たちの位置は微妙である。彼女たちは学校に行きながらも、知識を身につけ、賢くなることを必ずしも求められない。・・・彼女たちに求められるのは、男性に好かれるために「幼稚」でありつづけることである。幼稚であり、無邪気であり、男性を安心させ、男性に選ばれることを社会的な圧力として受けているのである。・・・だから彼女たちは甘やかされ、社会的な強者のふりをすることが許されているのである。

多層なメタ的言説により疲労している社会全体が、彼女たちが「癒し」な存在であることを望んでいる。・・・「癒し」とは、多層的なメタ的言説をもたず「単層な言説」のみをもつ相手とコミュニケーションすることによって得られる安心感である。・・・だから女子高生がほんとうに「単層な言説」しか持ち得ていないということではなく、子供は無邪気で無垢であってほしいように、幼稚で、単層的であってほしいのである。


社会はなぜ「幼稚化」するのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041012




「中年童貞」という”高飛車”な姿勢


価値が多様化する社会においてコミュニケーションが困難になる中で、人々が「ギャル」を上流に祭り上げることによって、価値が共有されているように、「繋がっている」ようにふるまわれる。そこに単に女性のための一商品としては還元されない人々に共有された一元的な価値としての「恋愛」の力が生まれる。

中年童貞が恋愛資本主義の弱者として下流にさげすまれるには同様の力が働いているだろう。ただ中年童貞は単に下流を受け入れているわけではない。「ギャル」に勝てないながらも、風俗へ行かないことによって、「ギャル」が“高飛車”の姿勢を貫いているのと同様に、ささやかに”高飛車”な姿勢を貫いているのである。彼らもまた商品化に還元されない「恋愛」の力を信じているのだ。そこに本当の繋がりを見いだせると信じているのだ。
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