なぜ環境回帰には市民レベルの協力が重要なのか

pikarrr2007-07-15

環境対策としての規律訓練型/環境管理型

レッシグ風に考えれば、この軽犯罪を減らすには四つの方法がある。法的規制・・・社会的規範による規制・・・この両者は規律訓練を前提としている。法や規範を教育し、内面化させる制度が機能しなければ、この規制は失敗する。・・・そして三番目は市場の利用・・・四番目の方法、アーキテクチャによる規制である。私たちの社会は、このような局面でも、法と規範による規律訓練を放棄し、アーキテクチャによる管理へと確実に重点を移している。そしてその管理を可能にしているのは、膨大な情報を処理する機械群である。

アーキテクチャ「環境」と意訳して、今回説明したような意味での管理を「環境管理」と呼ぶことにしたい。この新しい権力は、人々の内面を経由することなく、生活環境を直接に変える。・・・視線の内面化による規律訓練を通した秩序維持から、個人認証と情報処理による環境管理を通した秩序維持へ。これはおそらくは、ポストモダン化が進み、単一の規範では支えきれないほど複雑化してしまった現代社会の不可避の選択である。


東浩紀  「情報自由論第3回」 http://www.hajou.org/infoliberalism/

たとえば人がいない部屋の電気をつけっぱなしにする無駄を考えましょう。規律訓練型では、「つけっぱなしはやめなさい」と指摘します。環境管理型では、人がいなくなるとセンサーで関知して、電気が自動的に消えるようにします。

どちらかというと、欧州の環境対策は規律訓練型です。市民活動として、環境倫理を考えます。たとえばゴミの分別などは普通で、雨水を溜めて、生活水に使うなどの、市民レベルの努力をしています。

それに対して、日本は産業主導型です。国の支援もあり、機器の省エネ化などを開発し、人々はそのような機器を買うことで、いままでと同じ生活をしながら、環境問題に対応をします。すなわちこれは環境管理型です。この違いは国民性の違いとも言えます。一説では日本人は村社会と言われながら、国の強制的な指導がなければ、市民レベルの連帯=公共性の意識が低いと言われます。




規律訓練型環境対策の重要性


対策としては、どちらでも良いようですが、問題は、環境問題が国、地域レベルに閉じていないということです。たとえば欧州、日本がいくら環境対策を進めようが、いまや世界第二位のCO2排出国になった中国でたれ流しされると、当然、日本にも影響が及びます。だから国際レベルで規制が必要になります。

国境を越えて環境の問題が影響すると考えると、ともにやっていくのですが規律訓練型と環境訓練型はどちらが良いだろうかということです。規律訓練型は、環境倫理とともに市民の助けあいが重要になります。それに対して、そして環境管理型はお金で解決するという個人的な対応です。

環境問題から、資源が不足し、様々な消費財が高騰するなどきびしい状況の中で、環境管理型のような市場重視で個人に任せた対応では限界がある。規律訓練型のような市民の助けあいが重要になるのではないでしょうか。




環境回帰の時代


マルクスもいったように、資本主義は共同体を解体し、個人主義的にしました。個人主義というのはとても贅沢なもので、物質的な豊かさによって支えられるのです。先進国という内部に閉じたポストモンダンな状況のみが可能にした状況です。

時代は、もはや幸福なポストモダンを超えた。それは先進国的な閉塞に閉じることができずに、<環境>が回帰しはじめたということです。その象徴が、環境問題であり、911、世界的資源争奪などに現れています。

グローバル化、帝国、フラット化は、資本主義が世界を侵略するイメージが先行しています。これはかつての絶対主義時代の先進国/植民地の差異が保たれた中での、侵略のイメージです。ここでは、先進国が植民地へ一方向です。しかし<環境>の回帰は、逆方向の動き、外部が先進国へ侵入してくるイメージが必要です。

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