なぜ消費は減算で愛は加算なのか

pikarrr2007-07-19

怒りオヤジ3」 

それぞれ問題を抱えつつも、一人では脱却できずに、世間からは「ダメ人間」の烙印を押された者たち。そんな彼らに芸能人が愛のお説教をし、広く日本の世直しをする!史上初の一般応募型叱られバラエティ『怒りオヤジ3(さん)』。

彼氏が4人もいるという浮気性女に、本当の愛を涙で語った出川哲朗…35歳の無職ニートに、大声で喝を入れた阿藤快…中絶してもヤリまくるバンバ女を、母の心で包んだ松野明美


怒りオヤジ3」 http://www.tv-tokyo.co.jp/ikarioyaji3/

怒りオヤジ3」という深夜番組があります。「ダメ人間」をタレントが説教する。しかしその「ダメ人間」のダメさも筋金入りで、「なんでダメなの?」と開き直り、タレントがしどろもどろすることがおもしろい。

その中で最近、気になった「ダメ人間」が、ショタコンの二十代の女性です。10代の男が好きで、何人かを囲って定期的にHをする。Hをすることでつなぎ止めておく。しかし男が20才をすぎると汚れた「キモい」存在になる。ショタは歳を重ねることで汚れていく。だから別れて、また新しいショタを探す、というようなことでした。「ダメ人間」「あれ、こいつ他のバラエティーみたぞ」というのものもあり、どこまでマジかわからないですが、彼女をみて、「愛」とはなにか、考えてしまいました。




「消費の関係」「愛の関係」


彼女はショタへの愛情があるといっていましたが、彼女の行動は簡単にいえば、「消費の関係」でしょ。消費とは相手を商品としてみる。商品はそのはじめにすでに価値があり、使っていくことで価値が減算していきます。そしてどこかでそれを使い捨てて、代替品を手に入れる、ということです。

彼女にとって、ショタは商品であり、最初に価値があり、Hすることで消耗し、価値が下がり、次のショタに代替する。これは処女信仰と同じ構造です。処女信仰は男尊女卑の構図、男性が主で、女性は従です。彼女にとってショタはおしゃれな服や、アクセサリーと同じような好きなものです。そして大切なのはどこまでも自分です。

「愛の関係」とはこの逆で加算的です。関係していくことで、その他者がかけがえのない者となっていきます。愛の関係が構築されると、親子、師弟、友達など、いなくなると、その人への代替がききません。ある意味で自らの一部となり、自分を犠牲にしてでも、その他者を守るようなことが生まれます。

消費の関係では、彼女がショタを消費財としてみているということは、ショタ側からみれば、彼女も消費財でしかないということです。十代といえば、「穴があれば入れたい年頃」ですから、ヤラせてもらえれば大喜びでしょう。そして彼女は単なる肉便器です。




商品への倒錯としてのオタク


消費社会において、愛の関係を維持することはとても大変なことです。消費社会はたえず誘惑を仕掛けてきます。「消耗しきったボロぞうきんのような関係をいつまで大事にするんだ。ちょっとお金を出せば、ほらこんな新製品を楽しむことができんだぜ。いや、契約さえしてもらえれば、この最新の本体はだたでもよいよ。」

愛の関係は、自分だけが築こうとしてもできません。なにを考えているかわからない他者に対してお互いに根気強く、向き合っていかなければなりません。だから現代の消費社会では多くにおいて、面倒な愛の関係よりも、好きなものを回りにはべらせて、満足します。そしてたとえばオタク的なもの、アイドル、萌え商品、あるいはペットなど。消費材である商品が代替がきかないかけがえのないものであるように倒錯します。




「手段としての他者」「目的としての他者」の間の揺らぎ


愛の関係とは、マルクス、柄谷的にいえば、「他者を手段でなく目的とする」アソシエーション的でしょう。ボクは理想主義者ではないので、これだけで社会が形成されるとは思いませんが、資本主義社会が市場主義的リバタリアン化しても、人は愛の関係がなければ、生きていけないと思います。

たとえばオタクを倒錯だけでみるのは短絡的です。商品への愛はそれを共有する「想像のコミュニティ」へ帰属するためのチケットを意味します。その趣向する人々とつながり、愛の関係をつくるろうという、消費社会における一つの試みともとれます。

オタクにおける「商品への倒錯」「想像のコミュニティ」の関係には、他者を手段する「他者回避」と、他者を目的とする他者との関係構築の間の微妙な揺らぎがあるでしょう。この揺らぎをオタク傾向と考えれば、ブランド品にはまる女性など、現代の消費行為に内在する揺らぎでしょう。




ネットコミュニケーションの二面性の使い分け


ではネットコミュニケーションはどうでしょうか。「愛の関係」を築けるでしょうか。ネットコミュニケーションは積極的に他者とのコミュニケーションを求めます。だからそこに他者を目的として、愛の関係を築くことは可能でしょう。しかしネットコミュニケーションの匿名や、入れ替え、離脱が容易であるなど、不特定多数とコミュニケーションするに向いています。このような関係は、その場だけの他者を手段として消費する関係でしょう。

ネットコミュニケーションの魅力は、このような手段と目的の二面性の使い分けやすさかもしれません。しかし多くにおいて使い分けは失敗し、かまってほしい過激発言、炎上、祭り、あるいはブロガーのジレンマなどの不安が生まれます。




愛への強迫的な不安


動物化だけでは生きられず、愛の関係の欠乏からくる不安は、愛を求めて過激な行為に走ってしまうという極端な「人間化」へと転倒してしまいます。

たとえば、「オレオレ」詐欺のような手口になぜひっかかるのか、不思議ですが、もしかすると「オレオレ」詐欺の要因の一つもここにあるのかも知れません。寂しい現代人にとって、貴重な身内との愛の関係はたとえば騙されたとしても、愛情を証明しなければならないという愛への強迫的な不安があるのかもしれません。

先のショタコン女性も、このような愛を求めた転倒してといえるでしょう。ショタからHさせるかわりに、お金をもらう/はらえば、愛のない等価交換=消費関係であることが明確になるでしょうが、決して金銭関係にしないことで、そこに愛があるように見せている。ここに素直に「愛」を求めることができない彼女の悲しさがあります。
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