なぜネオリベラリズムを批判することは難しいのか
近代というデジタル化
最近のネオリベラルや、動物化をめぐる議論は、アナログとデジタルの関係で語るとわかりやすいのではないだろうか。
アナログとはこの世界の連続性であり、決して反復されることがない。たとえば放り上げたボールの軌道を古典力学で計算できても、現象は空気や熱などの環境に左右され、あくまで近似的なものでしかない。では、そのような環境も含めて計算すればと思うが、原子単位のふるまいを観測することなど不可能である。物理学はどこまでも近似でしかない。このよな意味で、この世界(アナログ世界)は連続であり、決して反復されされないし、再現されることはない。
人はこのようなアナログ世界を単位で切り取り、その関係性を見いだし、近似的に記述してきた。それがデジタル化である。たとえば大量のリンゴがあり、品質管理するために大きさで分類するとする。長さが2cm単位で分けると、10cmも12cmも、10〜12cmという同じグループにカテゴライズされる。しかし分解能を1cmと小さくすれば、10〜11cmと11〜12cmの異なるグループに分類される。このように分解能を小さくすればするほど、アナログに近づくことになるが、たとえばリンゴの大きさ、10.1345mm、14.1456mm、12.1534mm・・・・と大量の情報になるとともに、それを管理することが難しくなる。だから適切な分解能によって管理される。
このように適切なデジタル化は情報として管理しやすく、再現されやすい。たとえば巨大な建造物を多くの人々の共同作業によって建設可能であるのも、様々な建築資材が規格化(デジタル化)され管理され、情報伝達することができるからだ。そしてまたデジタル化は同じものを大量に生産するという低コスト化にもつながる。
すなわち近代以降の科学技術進歩、そして資本主義システムは、アナログ世界をデジタル化することで管理して、(物質的な)豊かさを達成したのだ。
モダン(近代)な解離 アナログな精神とデジタルな身体
しかしデジタル化は、人間と関係すると倫理的な問題を生む。人間の倫理とは、一人一人が異なり豊かな感性をもつ、誰とも代替されないかけがえのない存在である、というアナログ性にある。人間を何らかの分類でデジタル化(カテゴライズ)することは、人間のもつアナログ性としての尊厳を抑圧する。
これは単に人間を何らかの方法で分類するだけでなく、たとえば画一した教育、TV番組など身の回りのもの商品や情報などが、デジタル化されることで、人間の形成において、多様な豊かさの可能性を抑圧する面があるということだ。
ここにアナログとデジタル化の対立が見いだせる。これは近代思想の祖といれるデカルトの心身二元論にすでにあらわれている。デジタル化(機械化)される身体と決してデジタル化されない精神。「方法序説」(ISBN:4003361318)に記述されているのは、近代化というデジタル化(機械論)に目覚めた高揚感と、決してデジタル化されない精神を守ろうとする倫理観の二元論的な解離である。ここに近代の人間像の原型があるのではないだろうか。
アナログとデジタルの対立が見失われる地点
現代の情報化社会はさらに少し進んでいるだろう。情報化社会では、デジタル化の分解能が画期的に向上した。たとえば大量のリンゴの大きさを0.001cm単位で管理する大量の情報も、管理、処理することも容易である。これによって、実質、一個ずつを個別に分類し、管理することが可能になる。情報処理能力の向上によるデジタル化はアナログ性に近似する。
これはまさに画像データで良く知られている。画像データをデジタルとして処理し、管理することは、膨大な情報量となり、その処理も困難であったが、最近の情報処理技術の向上はそれを容易なものにしつつある。たしかに原理的にはアナログは決してデシタル化に組み尽くされることはない無限性であるが、人間の認知限界において、アナログとデジタルの差が見失われるところまできている。映画のコンピューターグラフィックなど、もはや現実と区別が付かない。
これを仮に人間に当てはめれば、「一人一人が異なり豊かな感性をもち、誰とも代替されないかけがえのない存在」というアナログ性をデジタル化によって管理することに近づくということだ。科学技術進歩、そして資本主義によるデジタル化の徹底、ネオリベラル化によって、「だれとも違う私」という人間性が満たされつつあることは、動物化と言われる。
そしてこのような時代において、心身二元論的な対立をどのように考えるべきだろうか。
「ポストモダンの二層構造」
このような傾向の問題として脱社会化が上げられている。高分解能なデジタル化という個別化によって尊厳が承認されてしまうと、社会(他者)を必要とせず、孤立化したまま、充足してしまう。資本主義という競争社会において競争に参加せず下流のままで自己充足してしまう。
さらに、それでもデジタル化には限界がある。もし仮に人がデジタル化によって充足しているように見えても、どのような高分解能のデジタル化においても人間の尊厳には還元されない。安易な充足そのものによって人間のもつ豊かさを抑圧している。
だからその反動として、最近のナショナリズムや、宗教など瞬間的に安易に他者に共鳴してしまうことが起こる。たとえばネット上のサイバーカスケードもこのような傾向とと言われる。心身二元論において、身体は動物化して充足してるようで、心は尊厳を求めて瞬間的に安易に他者に共鳴する。このような傾向は、「ポストモダンの二重構造」*1と言われる。
面倒な他者と向き会い続けること
このような問題に対して、いかにアナログな社会性、すなわち他者との関係を取り戻すか、ということが重要とされる。それは瞬間的に安易に他者に共鳴することではなく、他者との関係をあきらめずに、気長に築いていくことである。
他者は決してデジタル化されない存在である。逆にいえば、デジタル化されない、決して自らの思い通りに管理されない存在こそが「他者性」である。だから動物化のような安易な充足に対抗しながら、継続して面倒な他者を向き合い続けることが求められる。そこに安定し、継続される人間性が構築される。
いったいネオリベラルの何が問題なのだ
このように言うことは簡単であるが、ネオリベラル化、動物化は、近代という科学技術進歩、そして資本主義システムによるデジタル化による心身二元論の潮流の一部としてある。
たとえば最近の安易なナショナリズムと、近代の国民国家へのナショナリズムとに構造的な差異があるのだろうか。国民国家はまさに近代の潮流の中で生まれたものである。このような傾向は近代の構造そのものに支えられているのである。
だからネオリベラルや、動物化の否定は近代化の否定である。ではどこに向かうのか。「自然に返れ」とロマン主義に向かうわけにもいかない。デジタル化は物質的な豊かさ、すなわち安定した生存に貢献した。これは人類史においても、画期的なことである。ネオリベ批判や環境問題などで忘れがちなのはデジタル化の手を抜けば生存は難しくなるということ、「自然」は浪漫ではなく、不確実性、すなわちアナログ性という「神的暴力(ベンヤミン)」としてある、ということだ。
ではマルクスのように資本主義の徹底(破綻)の先に、新たなデジタル化されたユートピア(アソシエーション)をみるのか。確かに近代化の潮流は革命によってしか分断できないのかもしれない。ネオリベラル化や、動物化は、このようなラディカルな問題である故に安易に否定できないのだ。そこて回帰するのがいったいネオリベラル化の何が問題なのだ?ということだ。
*2
*1:参考 [批評]東浩紀の「ポストモダンの二重構造」とその限界 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060117
*2:画像元 http://blogs.dion.ne.jp/surviveplus/archives/cat_14083.html