なぜオタクは現代をたくましく生き残れるのか

pikarrr2007-08-29


情報過多による無気力と退避


子供は現実的な情報が少なく、突拍子もない様々な物語を作り出す。親はそこに適切な情報を与えることで、社会への順応性をつけさせる。しかし過保護による過剰な情報提供は物語る力を阻害する。物語は未来へと生きる力の源泉である。そしてまた折り合いをつけながら、物語と現実の間を生きることで、生きる持続力を養う。このために安易な情報提供は、物語ることを挫き、「結局人は死ぬんだから」という相対主義的な無気力、あるいは現実との衝突に耐えられず物語への退避し、現実から逃避する。

このような問題は、過保護な子供だけでなく、情報社会の問題である。情報化社会では大量の情報は失敗することのリスク回避に役立つが、人々が物語ることを困難にする。このために、生きる力と持続力を弱めて、人は安全な予測可能性の殻にに閉じ込もり、自ら動くことが恐くなる。




「癒し」の不健全さ


このような情報過多の閉塞では、親の子供への過剰な干渉は子供を想った情報提供だけでなく、子供の物語への介入することで自らの閉塞からの脱出したいという願望をもつ。このように情報過多の中では、「未規定なもの」に干渉したいという渇望が一つの傾向としてあらわれる。

たとえばオタクの「萌え」にもこの傾向はみられる。女性の神秘と言う言葉があるが、成人女性は社会的な構造物として、情報過多な閉塞した存在である。このために「未規定なもの」を求めて、幼児の無邪気さに向かい、そこに閉塞感からの一瞬の解放を見いだすとともに、創造性をかき立てられる。

このような傾向は、オタクだけでなく、女性の少年愛、大人のペットなど、それは「癒し」と呼ばれ、みなが「かわいい」という未規定へ感染を試みている。「未規定なもの」への感染は、人間の特性であり、そこに生きる活力を生み出す原動となるが、現代の「癒し」が不健全であるのは、それだけ閉塞的な状況にあることを示している。




オタクの現代を生き残るたくましさ


東は、現代の大きな物語の凋落」象徴界の機能不全と呼んだ。「象徴的なもの」という社会性の弱体から、自らの都合のよい「想像的なもの」という殻へ回避しつつ、そこから生まれる閉塞から、安全な「現実的なもの」(未規定なもの)へ感染し生きながらえる、ということだろう。

社会の流動性が高い故に保守化することが起こっている。情報過多であるから可能性が広がるが、見えすぎる過保護な状況から、リスクの高い「未規定なもの」への感染へ躊躇する。

このような退避を安易に人間の弱体化と呼ぶことはできないだろう。情報化社会は高度な経済システムをささえることで、人々の安全な生存に根ざしているからだ。だから逆にオタクが小さな未規定性に「癒し」だけでなく、これだけの多様な物語を紡ぎだしていることは、奇跡的である。それでも生き残りたいという人の持つ「たくましさ」とさえいえる。

このようなオタク傾向は、主に「セクシャリティ」への感染を元にする日本のオタクだけでなく、情報技術ニッチのハッカーなど、情報化社会を生き残る一つの戦略としてあるだろう。
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