なぜ資本主義社会では「ひきこもりながら」生きることがめざされるのか

pikarrr2007-08-30

動物化した主体の他者回避


動物化した主体の形成は、成長過程における「父」の機能の弱体化に特徴があるだろう。社会的な価値観が維持されないなかで強い「父」の機能が働くなくなっているという、社会的規律教育という去勢の不十分。これは、大きな物語の凋落」と呼ばれる。

去勢によって習得する社会性は、他者との関係において、どのような状況で、どのように振るまうべきかという儀礼であり、それでも協力していかなければならない他者との間の緩和装置として働いていた。

だから去勢不全において社会的な規律、儀礼の習得が未熟な主体は他者とのアクセスに多大な負荷を感じる。なぜなら他者とはそもそもにおいて、不確実な存在であるからだ。すなわち動物化した主体は他者回避が大きな特徴となる。




動物化と資本主義の密接な関係


それでも主体が主体であるためには、他者からの承認が必要とされる。このための動物化した主体の承認は、「他者」と異なるなにを所有しているか、という消費過程における選択によって行われる。この場合の「他者」は、現前し負荷を感じる他者ではなく、商品の向こうにいるだろう「他者」であり、マルクスのいう商品の物神性を支えるような「他者」である。

マルクスがいうように資本制という生産様式、そして消費社会を下部構造として、上部構造として動物化した主体は形成されるのか、あるいは近代化という啓蒙主義的な個人の自立、あるいはプロテスタンティズムの倫理」の流れの中で主体が動物化することで、資本制の消費社会が進められたのか、起源を問うことは困難であるが、動物化した主体が資本主義経済と深く結びついていることは確かである。だから動物化した主体は、多くにおいて、市場主義、自己責任、他者干渉を最小限にする、ネオリベラリズムを支持する傾向にある。




動物化した主体は「ひきこもる」


消費により承認される動物化した主体は、商品の激しい変容に対して、「他者」を見失わないように、いまなにが人気であるか、たえずアクセスしつづけなければならない強迫状態におかれる。しかし実質的には現前の他者とコミュニケートする必要がなく、自己充足し、社会から退却しているようにみえるだろう。

だから「ひきこもる」という行為は動物化した主体のキーワードになる。これは家からでられない俗に言う「引きこもり」よりももっと広義な意味である。たとえば恋人でもセフレでもよいが、「ふたりぼっち」「ひきこもる」、あるいは、まさに「引きこもり」や独身女性の「パラサイトシングル」のように、家族というカプセルに「ひきこもる」

たとえば以前の男性と女性がつきあう場合には、家族や友人などへの社会的関係、責任がついてきたのに対して、「ひきこもる」という行為は、このような責任を問うような「現前の他者」は煩わしく、恐怖であるというように回避される。




「ひきこもりながら」行為する


このような「ひきこもりながら」様々な行為が可能で充足をえられる社会というのは、画期的なことであり、資本主義社会の大きな成果である。

「ひきこもりながら」楽しむ・・・現代は一人で楽しむことに溢れいてる。テレビ、ビデオなど、さらにはゲームなどのインタラクティブにおいては、プログラムされた疑似的な他者との駆け引きを楽しむことができる。

「ひきこもりながら」食事をする・・・マクドナルドなどのファーストフードや、ファミレス、コンビニなどは、機械的な応対によって他者回避しながら食料を確保することができる。

「ひきこもりながら」コミュニケーションする・・・他者回避しながらコミュニケーションするというのは、一見矛盾しているようだが、ケータイ、PCなどのネットコミュニケーションの匿名性など、社会性への責任が回避され行われる。

「ひきこもりながら」性関係をする・・・AV、風俗などの商品としての性関係だけでなく、二股、三股など関係は、責任がともなわず、自らに都合のよいセックス相手を確保する性関係と言える。さらには恋人関係であっても「ふたりぼっち」「ひきこもる」傾向がある。

「ひきこもりながら」生存する・・・家族にパラサイトしながら生きる。これを可能にするのは、家族の経済的な余裕とともに家族そのものが「ひきこもり」可能なカプセル化していることがある。ある意味で、親もまた子供に寄生している関係がある。また自ら仕事して稼ぐにしてもフリーターのように社会的な責任を回避しつつマニュアルに従い働く、あるいは正社員であっても責任ある仕事を回避しながらこなすように仕事をする。




「なんでもお金で買える」資本主義システムが「ひきこもりながら」を可能にする


この中でもっともむずかしいのは、「ひきこもりながら」生存することではないだろうか。動物化においてもっとも問題として語らえるのが、経済的な自立ができない「引きこもり」や、フリーターであるのは、このためだろう。逆に言えば、経済的に自立していれば、「ひきこもりながら」なにをしようが、個人の趣向の問題でしかないといえる。

フリータ、ニートとして働く場合、ネオリベラリズムが進む中で下流へ追い込まれてしまう。一時はそれでしのげても、継続性において、生存にも困窮する状態は脱社会化していたも、もはや動物化とはいえない。

様々な行為を「ひきこもりながら」可能にするのは、「なんでもお金で買える」資本主義システムによっているのである。いかに社会的な責任を回避しながら、「ひきこもりながら」安定した収入をえるか。それがまさに、動物化した主体にとっての今後のもっとも大きな課題であるとともに、資本主義が発展するために乗りこえなければならない最大の課題であるだろう。この問題を解決しなければ、動物化した主体に支持されるネオリベラリズムは行き詰まるだろう。




情報化社会は「ひきこもりながら」の経済システムを可能にするか


いかに「ひきこもりながら」安定した収入をえるか。それは一部の人のたまたまの成功でなく、一つの経済システムとして機能可能か、ということだ。情報化技術はそれを可能にするだろうか。情報処理技術の向上で、情報商品の製作、流通のコストはただのように安くなっている。「ひきこもりながら」趣味的に製作するものを多くの人に流通することができる、というのがネットの一つの夢としてある。

このような考えは多くにおいて成功していない。なぜなら情報商品は容易にコピーされて所有権の確保がむずかしく、ネット上では情報商品は共有価値であるように振るまわれるからだ。それでも、グーグルのアフェリエートや、セカンドライフでうけたなど、ネット上の「ひきこもりながら」収入をえる試みには終わりがない。

それはあまりにも難しいとおもう。なぜなら人類の生存は動物化ではなく、いかに生存するかという本当の「動物」の領域に属するからだ。それは自然と関係する類的存在としての経済システムと切り離せない。それとともに「ひきこもりながら」生きることが類的存在としてめざされているわけではないからだ。