なぜワイロはなくならないのか

pikarrr2007-09-07

貨幣交換と互酬


貨幣交換と互酬(贈与と返礼)の違いは、貨幣交換は「相手が誰であろうが、等価として交換する」という、その場だけで成立するものです。近代以降の流動性の高い社会では、多くの初対面の人と交換を行う必要があります。そこではその場で成立する貨幣交換の「無時間性」は重要です。

それに対して、親友のためになにかをするのは、誰でもよいのではなく親友だからであり、またいつか同じだけ返してもらうためでもありません。親友としての関係性に価値があり、それは親友と過ごした時間、あるいはその家族、子供へと継続した時間に開かれています。たとえば親が子供を育てるのは将来、子供にその分を返してもらいたいからではなく、その子がまた子供へ贈与することを期待します。ここには未来に開かれた親密な関係があります。

これを言語論につなげると貨幣価値は「論理」的です。誰に向かって、あるいは歴史に関係なく、コンテクストに関係なく、コンスタティブに意味が伝達されます。しかし実際の言語意味はコンテクストから切り離せません。相手が誰か、そして歴史の中で、パフォーマティブに意味はあらわれます。だから純粋な「論理」的な意味は存在しないといえます。そして純粋な貨幣交換はありません。そこには必ず「互酬性」が混入します。




互酬制の強さと貨幣交換の弱さ


「親密な関係を重視する」という互酬制の重要性は、人は社会関係から切り離されていきてはいけないということにあります。人は場(コンテクスト)に埋め込まれ、変化に対応することで生存します。だから「相手が誰であろうが等価として交換する」という貨幣交換の純粋性を高めることは、とても危険なことなのです。

ボクたちは日々、当然のように貨幣交換を行える裏には、自由な貨幣交換を疎外することがないように強力な権力として国家の存在があります。この場合の国家は1国だけではありません。国家は世界を網羅した協力体制にあります。自由主義を受け入れるには、場から切り離されても生存可能を保証するような権力基盤が必要とされます。

たとえばネット上で貨幣交換が活発でない理由の一つは、このような国家権力の機能が作動しにくいということがあります。ネット上は不正を突き止めるのは難しい「無法地帯」と言われます。i-modeなどでは課金システムがうまく作動しているのは、ドコモの管理体制内で決済がおこなわれるという安全性からです。

自由主義の理想が、「相手が誰であろうが、等価として交換する」という純粋な貨幣交換による活発な経済活動であるとしても、貨幣交換に互酬性が混入せざるおえません。というよりも、もともと互酬制が生存に根ざした共同体の基底としてあるのに対して、貨幣交換は弱く、繊細なシステムであり、国家権力という秩序を保つ強い権力による保護と規律訓練を必要とするのです。それは、近代における民主主義化、フーコーのいう規律訓練型権力と言えます。




貨幣交換に混入する互酬性の根深さ


たとえば国の公共工事を入札する場合、談合などの不正がないように純粋は入札が求められます。しかし一般消費者が商品を購入する場合でも、商品は価格だけでは決めません。生産者は誰であり、そして生産者との歴史など、そこには互酬性が混入します。むしろ互酬性による「親密さ」という信頼を排除し、価格や情報だけで決定することは、むしろ危険ではないでしょうか。

公共的な立場では、そのような信頼は危険なものとされます。特に自由主義が未発達な国では、貨幣交換に混入する互酬性は、国家権力の悪用も含めて、ワイロ天国になり、経済の発展を疎外します。

たとえば中国での違法コピーが問題になっています。しかし当事者たちには罪悪感が薄いのは、互酬性が強く残っているからです。知的財産というの概念は、貨幣交換システムの一部としてあり、国家によって教育し秩序を保たなければなりません。しかし先進国においても、政治家などの贈収賄があとをたたないのは、貨幣交換に混入する互酬性の根深さを示しているといえるでしょう。




貨幣の力が権力となるとき


マルクスは貨幣の力を、商品の価値を決める位置にあること、そして資本家は貨幣を蓄積することを自己目的化する守銭奴である、といいましたが、権力が問題になるのはいつも権力が「親密な関係を重視する」互酬制と結びつき、閉塞するときです。だから実際に貨幣の力が権力として作動するのは、「親密な関係を重視する」互酬制を巻き込んで、強力な内部を形成するときだと、言えるのでしょう。

最近のネオリベラリズム新自由主義)では、自由にすれば「自然に」格差が生まれる。それが自由競争によるものであり、必ずしも悪くないと言われます。しかしどこまで純粋に自由主義が実現されているかは疑問です。

グローバリズムとして世界に広がる市場経済の周辺(未発達な国)にいくほどに、自由主義をうたう企業が、国家権力を内包し、「親密な関係を重視する」互酬性による勝ち組を形成するのは、容易に想像できるのではないでしょうか。

ソ連などの共産主義国家社会主義)の失敗は互酬性を払拭できなかったことに大きな要因があるのではないでしょうか。平等な分配というイデオロギーのもとに国家権力が機能していたはずが、そこには「親密な関係を重視する」互酬性が蠢いていた、ということです。
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