なぜお金がすべてなのか(仮) その1 純粋贈与と、贈与と、交換

pikarrr2007-09-29

幸運と神


たとえば宝くじで10億円当たってしまうと、どのような気持ちになるのだろうか。それは飛び上がるほどのうれしさであるとともに、不安になるのではないだろうか。無償で大金を贈与されることの罪悪感がともなうだろう。

このために宗教への帰属とは関係なく、漠然と神に感謝するだろう。それはこの罪悪感(負債感)を解消するために必要な返礼する他者を想定する。神へ感謝することで返礼する。あるいは慈善団体へ一部寄付することもあるだろう。また知り合いに祝儀を振る舞うだろう。

これはつゆ払いであるとともに、負債感の解消行為である。このような散財による贈与は、神=超越的な他者への返礼であり、負債感の解消である。これは迷信のようなものであるだけでなく、経済的な行為である。負債感は無意識に罪悪感として、今後の様々な行為を萎縮させるようなことがおこる。この幸運を吹っ切り、次に結びつける行為であるといえるだろう。たとえばホールインワンをするとパーティーを開く、たとえばサッカーでゴールをしたあと、神に祈る行為などにも現れている。




純粋贈与、贈与、交換

贈与は、贈られる者に心理的負債と返礼の義務を負わせる。逆に捉えれば、贈与者になるということは、相手の上位にたつことなのである。・・・モースにとってそれは、交換の原因をなす精神的な基礎、すなわち優越性への欲望と、引き続き生ずる負債感である。

かつてデリダ「時間を与える」において「純粋贈与」とでも呼びうるものに言及した。モースの言う贈与は、交換・交易を必然的に引き起こす。すなわち含んでいる/予定している契機であるがゆえに、真の、無償の、つまり純粋なそれではないのである−それはむしろ、「贈与交換」と呼ばれるべきものである。・・・「純粋贈与」とは究極の無償贈与であり、たとえば神や自然の人間に対する贈与、自然の恵みのようなものを想定すれはよいだろう。

純粋贈与と、贈与と、交換の差異とはいったい何だろうか。それは、「負債感」の相殺にかかる時間の差異である。交換において負債感は生じない。というよりも正確には、負債感の持続時間がゼロである。商品Aと商品Bを本当の意味で等価交換したならば、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺されるだろう。これに対して贈与では、返礼をするまでのあいだ負債感が持続する。そしてむしろ、その持続する負債感が返礼の原動力となる。・・・さらに純粋贈与にあっては、それに対する返礼は人間業では用意できない。すなわち負債感の相殺は永遠にできないことがはっきりしているので、負債感は永続的なものとなる。


中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) 第7章 聖なるものと構造




純粋贈与と純粋略奪


「純粋贈与と、贈与と、交換の差異が、「負債感」の相殺にかかる時間の差異である」、中野の指摘はとても示唆的である。交換における時間的な延滞を引き起こすのが、「神への返礼」だろう。贈与は、他者との間で完結しない神の存在によって、等価交換のような瞬時に負債を解消することができない。たえず自然の恵み、脅威という純粋贈与の不確実性に晒されている以上、神への返礼を欠かすことはできないのだ。

純粋贈与は、「神や自然の人間に対する贈与、自然の恵みのようなもの」であるとともに、自然脅威や予測不可能な災難なども考えることができる。すなわち神や自然の人間に対する略奪である。ボクはこれを「純粋略奪」と呼んだ。

たとえば子供を殺された親はその犯人への恨みを持ち続けるだろう。そして負債を解消するように復讐を望むだろう。しかしそれは地震などの天災出会った場合には、生まれる負債感の相殺はどこにも向かうことができない。

そしてそれを解消するために神が生まれた。神という他者を想定することで、負債を解消する可能性を開く。なければ、人は決して解消されない負債の中でいきることができない。人はいきるためにたえず、純粋な贈与(略奪)に晒されてきた。それを神との贈与交換として解消する、すなわちいつかは、「負債感」の相殺できるだろうと想定することで、解消しようとする。




人は贈与せずにはおれない


ここに互酬性(贈与と返礼)の起源をみることができるのではないだろうか。原始的な社会では自然の恵み、脅威という偶然性のまっただ中で、生きていた。その日常は、原因なく、幸運と不幸が降りかかる、すなわち純粋贈与(略奪)が到来する世界である。

このような原始的な社会で互酬性(贈与と返礼)が一般的であるのは、単に共同体の成員同士の助け合いというだけではなく、神という他者も含めた互酬性(贈与と返礼)を考えなければならない。だから贈与は誰かに贈与すれば、いつか返礼がかえってくるだろうという打算的な交換であるが、そのネットワークに神が含まれていることで、ボトラッチなど散財のような交換をこえた行為となる。すなわち贈与とはいつも神への返礼が含まれているのである。

逆に言えば、神からの贈与への負債感を解消するために人は贈与せずにはおれない。そして互酬性(贈与と返礼)に参加するしかない。(つづく)