なぜ街の浮浪者は見えないのか

pikarrr2007-10-24


「貧しい者」はどこにいるのか


マザーテレサが来日したとき街の浮浪者に手を差し伸べたという。これは一つのショックである。僕たちはテレビで、マザーテレサは世界中の貧困の地域にでむき、貧しい人びとに手を差し伸べている場面をよく見ている。そして世界にはこんなひどい地域があるんだ。そこに出向き、支援活動をするマザーテレサは聖人だと考える。

だからマザーテレサが日本で街の浮浪者に、貧しい国と同じように手をさしのべるとき、「いやいや、違うんだよ、テレサ。同じように見えるし、あなたの立場ではそうするしかないのかな。でも日本の浮浪者はそんなのとは違うんだよ。」と苦笑する。

しかしそれとともに、なにが違うのだろうという問いが浮上する。僕たちは、テレビで世界の貧しいひとたちを見て、なんてひどい世界があるんだろう、なか支援しないいけないという思いに駆られる。しかしその思いは、日本の街の浮浪者へは向かない。彼らは僕たちの日常であり、当たり前のものであるから、もはや見えないものとなっている。しかし僕たちがテレビで見る貧しい人々も、きっとその国の日常であるのだろう。

たとえば北朝鮮がいかに貧しいか、不当であるか、が懸命に報道されている。町をうろつく浮浪者たちと、一部の豊かな人々の差。しかし日本を題材にしても同様なドキュメンタリーは作れるのではないだろうか。日本は北朝鮮とは異なり、正当な競争の結果の格差であり、許容されるものであるし、北朝鮮ほどに日本はひどくない。これは、どこまで真実だろうか。




アンフェアーな領域


中国などBRICsが経済的に台頭しているが、国際的な競争は勝ち負けだけでなく、全体が高めあう競争となるということが、自由競争を推進する資本主義の論理である。でもそれによって、日本が不利になる可能性があるだろう。

国家間の競争は、ネオリベラルが考えるような、美くし経済学的な自由競争ではない。経済学的な自由で平等は競争は、調停者としての秩序のもとに、フェアーに行われるものであるが、このような競争には本質的に調停者は存在しない。

WTO世界貿易機関)などには、国連と同様に国家間を調停する強い権力を持つわけではない。だから国家間の取引においては、経済学的な貨幣交換の原理よりも、政治的な略奪、贈与が働くアンフェアーな領域である。それは単に汚いということではなく、例外状態における問題は解が出るようなものでなく、調停は何らかの力によってしか、決定されない。中国などはまだはじめから強国であるが、弱小国は容易にあがれない自由競争とという美しい名により隠蔽される非対象性があることは否めない。




アメリカの力のもとでの豊かな生活


たとえばアメリカがイラクを攻めたのはいかに正当化されるのか。そこには正当化を判断する調停者は存在しない。アメリカが強い武力を持っていることにつきるだろう。そしてそこに石油利権などの略奪、そしてアメリカ企業との贈与関係があることは否めない。そしてこれはテロリズムもまた例外状態における存在であり、間違いであるという判断も、絶対な正当性ではなく、アメリカ側の論理でしかない、ということになる。

僕たちは確実にアメリカ側に属している。強いアメリカの力のもとで、豊かな生活を享受している。だから世界という闘争の場を考えた場合に、僕たちが世界の貧しい人々へ向けられる様々な言説は、守られた場から強者の発言でしかない。これを偽善というのは簡単であるが、僕たちにいまの強者の庇護を失ってまで、世界に平等と自由を求める「勇気」があるだろうか。
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