なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか その2 オタクよ、美しく咲きそして散れ

pikarrr2008-02-05

「なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080204に質問をいただいたので、解説してみる。

「物語」とはなにか


まず「物語」とはなにか。それは動物と違う「人間」とはなにか、ということです。動物は「世界において自分は多くの一人であるということ、そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくる」世界を生きています。簡単にいえば、代替可能性です。自分がいなくなっても、誰かが代替するだけのことです。

しかし人間は、代替可能性を受け入れることはできません。たとえば子供を失った親は、違う子供で入れ替えることはできないということです。親にとって子供は唯一の存在です。そしてこの代替不可能性を支えるのが、その人の「物語」です。その人にはその人だけの物語があるのです。「自分の物語では自分が主人公」という歌がありましたが、人間であるということは、「物語」を生きるということです。この「物語」は主観的、形而上学的な物語です。




情報とはなにか


情報とはなにか、といえば、客観的、科学的な情報です。近代以降、社会は科学的な客観性を重視する社会となりました。科学的とは、還元的、帰納的ということです。人は科学的には、還元化され、物体(動物)として扱われます。すなわち代替可能な存在です。

すなわち現代において、ボクたちは絶えず囁きかけられているのです。「世界においてお前は多くの一人でしかない。もし自分がいなくなっても、機械のネジがかられるようにほかの人が問題なく補い、明日はなにも変わら流れる。」と。この拡散の強度をいかに生き抜くか。それが問題なのです。




動物としての生存の苦悩/人間としての収束と拡散の苦悩


再度いえば、物語とは、生で始まり死で終わるという私だけの一回限りのものです。同じ物語はどこにも存在しません。そして誰もがみな、自らの唯一の物語を生きているのです。それは失われると決して再生することはできません。だから人の命は尊いのです。

それに対して動物には、物語はありません。だから動物が死んでも次の動物で代替されるだけです。でも動物のペットに人々は愛情を注ぎ、代替できない、といえますが、これがペットが物語をもつのではなく、その人の物語の一部を構成するかけがえなさなのですね。すなわち唯一の物語への収束と代替可能性による物語の拡散。このような対立の構図がります。

このような収束と拡散の苦悩は、人間が本来もつ原罪のようなものです。これともう一つの苦悩は、動物としての生存の苦悩です。いかに安定した衣食住を確保するのか、どちらかといえば、人類にとってこちらの方が重要な悩みであり続けました。しかし近代、そして産業革命、高度情報化社会へと、生存の苦悩は緩和されてきました。

そして、現代において、生存の苦悩から解放され、コジェーブの動物化による「充足」、すなわち歴史の終焉へ向かう中で、「私とはなに?」という収束と拡散の苦悩がより大きなものになっているのです。




村上春樹風超人とオタクの自己組織的物語


村上春樹「プールサイド」「折りかえし点」という表現は、タイトルにもあるように水泳からきています。僕(村上春樹)と彼(この物語の主人公)はスイミングクラブで知り合い、この話を僕にします。彼はプールでの水泳を一つのメタファーにして人生を考えているのです。

プールとはただの四角いコンクリートの箱であり、それを往復(反復)するのです。すなわち彼がプールによって表したことは反復なのです。人生とはただの四角いコンクリートの箱を往復し続けることである、という人生哲学がそこに隠されています。彼のこの反復からくる退屈の強度をタフに泳ぎ続けている。

これをニーチェ永劫回帰にどのようにつながるのか。永劫回帰には様々な読みがありますが、ボクの「物語」論でいえば、人生は一度きりの「物語」であるということが自らの尊厳を支えますが、永劫回帰においては、この尊厳のよりどころの一回性が永遠に反復されるということです。そこにはそれでもこの反復を肯定する強い超人的な肯定(タフさ)が求められる、ということです。

果たして人は村上春樹風超人的に生きることにあこがれるだろうが、実際に生きることはできるだろうか。オタク的な生き方とは、このような強度を回避するために生み出されたともいえるかもしれません。オタクは反復をさけ、終わりのない物語として、自己組織的に物語を紡いでいくのです。




自らの物語を美しく描くか、集団のために潔く散るか


<折りかえし点>を見いだすということは、終わり(死)への覚悟をするということです。これはハイデガー「死への先駆的覚悟性」につなげることもできるでしょう。そしてとても西洋思想的で個人主義的なものです。

自己組織的に物語を紡いでいくというのは、単に死を直視することからの回避というネガティブな面だけでなく、東洋的な思考であるのかもしれません。

ボクがいった「物語」とは、生で始まり死で終わるという私だけの一回限りのものですが、私には親がいて、子がいてというような集団的な連続的な「物語」の一部として自らを受け入れる肯定することもできます。日本においては、むしろこのような集団の一部としての自らを見いだす、犠牲にする伝統を生きてきました。

このように考えると、自らの物語を美しく完成させようという村上春樹的な美学ではなく、自らは薄汚く散っても、それによって集団の物語が新陳代謝していくことを良しとする、美学がオタクの根底にはあるのかもしれません。それこそが動物化としてのオタクではなく、コジェーブがいった、日本的なスノビズムとしてのオタク文化でしょう。
*1