なぜショコタン(中川翔子)はエロいのか

pikarrr2008-02-06

ショコタンは女らしくない

ショコタン(中川翔子)についての話が滅茶苦茶面白かった。岡田氏曰く「女らしさの削ぎ落とし方が凄い」。確かにオタク的なことに理解があり、熱心(というかガチ)なオタクで、吸収力も半端ではないが、一見して理想的なオタクの彼女に見えるが…Visualがいいだけで、女らしさとは違う生き物になっている。これを表現して“イタイ”というのだ。いや、笑ったね。

http://d.hatena.ne.jp/kanose/20080204/nakagawa

岡田のこの表現はわかるところがあるのだけれど、中川翔子の魅力をそこにもとめているのだろうか。




オタクとはなにか

ボクなりに、オタクとはなにかと考えると、その特徴は過剰な自己表現になると思う。

たとえば本来の社会を生きるとは、本音と建前の使い分けることにある。これは本音を隠しているというネガティブな意味ではなく、建前という儀礼化されたルールを学び、様々な人間が円滑な社会関係を営む努力をするという意味がある。

オタクは、豊かな社会に育ち、このようなめんどうな他者との関係の作法を学ばずにきた、あるいは社会そのものがこのような儀礼を学ぶことに重きをおかない傾向の中で育った。

だから他者とのコミュニケーションそのものが苦手である。しかし自己主張が嫌いなわけではなく、主張したいことは内部に過剰にあるために、少ない自己表現の機会によりわかってもらおうと、過剰に自らをさらけ出そうとする。そして空回りして、回りから浮いてしまった経験をもつ。ある意味のこのような他者回避傾向、自己没入はオタクというよりも豊かな社会に育った現代人の特徴といえるだろう。

そして日本ではこのような過剰な自己を抱えた一部の者(あるいは多くの者)の受け入れ先として、オタク文化があった。さらにはこのような人々がオタク文化を作っている。オタク文化は鬱積した過剰な自己を表現する方法として機能している。

たとえば社会的な建前が一つの演技(メタ)であるのに対して、オタク表現もまた、自らの過剰性を隠す演技であるが、そこには自己をわかってほしいという過剰性がある。すなわち演技というメタでありつつ、ベタさがあふれ出ている。

オタクがロリコンであったり、幼児的な表現形態をもつのは、自らをさらけ出し、分かり合いたいというベタ指向に由来するのだろう。再度いえば、現代のおいて、誰がオタクであるかは必ずしも明確ではない。このようなオタク傾向は誰もが持つ者だからだ。多くのものがベタな癒しを求めている。




女性オタクのエロティシズム


女性においても、オタクは同様な傾向をもつだろう。たとえば中川翔子がTVで登場した当初は、どれぐらいにオタクとしての知識があるのか、ということ以前に、自分のことを話し出したら止まらないなどの自らの過剰な表現で空回りするオタク性が強く、うざい感じがした。最近はなれたのか、売れて自己表現の場が多く与えられたためだろうか、過剰性が緩和され、バラエティ番組でも見やすいものになり、自己をさらけ出すベタさと安心感とサービス精神に好感がもてる。

それとともにオタク女性には、ある種のセクシャルな魅力があるように前々から思っていた。たとえば中川翔子などがよく、女性アイドルに対して、「かわいい」と熱狂する仕方は、男性アイドルヲタと同じものである。オタクとは本来男性文化であるから、オタクを文化を受け入れた女性は男性的な表現をもつことになる。(このあたりがやおいといわれるものにつながるのかもしれない。)

彼女たちは性的なものをオタク的に受け入れるとき、転倒がある。オタク女性というのは、自らがオタクというだけでなく、オタクに性的に消費されるオタク的に消費される性的対象であるということだ。

この転倒では、自らのセクシャリティが隠されている。そして隠されている故に性的な魅力があるのである。いわば、「男装」によって女性的なものを隠している故に、エロティックである、ということだ。




鳥居みゆきの処女伝説


最近ネットで人気のお笑い芸人鳥居みゆきについても、同様なものを感じる。彼女はオタクではないのだけれども、その内向性という意味で、自らの過剰性を隠す演技とそこに自己をわかってほしいという過剰性、すなわち演技というメタでありつつ、ベタさがあふれ出ている。さらには彼女のもつ天然性がベタさをあふれさせている。そこには、現代の人々が好むベタさ、そして無垢性がある。

そして過激なお笑い芸人という「男装」ぶっきらぼうなエロティックな発言をすればするほどに、自らのセクシャリティが隠される。美しい容姿とのギャップに傷つけられたくないなにか無垢なものを隠しているように感じ、暴力的に傷つけたという欲望を想起する。この無垢性が、鳥居みゆきの処女伝説が語られつづける理由ではないだろうか。




オタクはエロティシズムの最先端で嗅ぎつける


はじめの岡田の発言に戻れば、「女らしさの削ぎ落とし方が凄い」故に、エロいのだ。

「健全な」エロティシズム、おそらく岡田がいうところの「女ならしさ」とは、ある程度成熟した女性のそれである。ロリコンとは、この「健全な」エロティシズムからもっとも遠い存在のはずである。オタクはここにエロティシズムを見いだす。

AVやグラビアなど、「健全な」エロティシズムが反乱してしまった。異性関係においても他者回避し、閉塞し、過剰となったオタクのエロティシズムは、健全なエロティシズムに興奮しなくなった。「健全な」エロティシズムから遠いところに、新天地を見いだす。すなわち「女らしさの削ぎ落とし方が凄い」ところこそに反応する。

これは倒錯的である。しかしフロイトもいうように本来、人間の性関係=エロティシズムとは倒錯的なのである。健全になった時点で、もはやエロティシズムとはいえない。だからオタクはエロティシズムの最先端で嗅ぎつけるのである。それがいま、中川翔子や、鳥居みゆき、あるいはPerfumeにあるのだろう。

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