「富士山をどう動かしますか?」 〜創造性への責任の時代〜

pikarrr2008-04-04



地頭力の時代

富士山をどう動かしますか? 〜 “地頭力”(じあたまりょく) の時代〜
http://www.nhk.or.jp/gendai/


「富士山を動かすにはどうしますか?」「世界6大陸のうち1つをなくすとしたらどれですか?」、今、こうした、一見、荒唐無稽とも思える問題が大手企業を中心に就職試験で使われ始めている。"知識だけでは解けない問題"で、学生の本来の思考力や、問題解決能力など、知識とは別の頭の良さ=地頭力(じあたまりょく)」を見極めようとしているのだ。背景には、環境変化が激しい現在、"未知の領域"や"不測の事態に力を発揮できる人材"を企業が求めている事実がある。地頭力のある人材発掘に取り組む企業の採用現場をドキュメントし、地頭力を重要視する背景や人材育成のあり方についても考える。

4/3放送のNHKクローズアップ現代で、最近の入社試験のあり方の特集をやっていた。「富士山をどう動かしますか?」これがマイクロソフトの入社試験問題ということだ。従来の知識を問う問題ではなく、知識とは別の頭の良さ=地頭力(じあたまりょく)」を問うということだ。企業は現状を突破するような創造的な発想をもった人を求めている、という。




デュシャン「泉」脱構築


創造性といえば芸術であるが、20世紀前半のシュルレアリスム抽象絵画などをへて現代美術はある意味で混沌としている。このような抽象芸術を揶揄するパロディとして良くある設定は、子供が落書きで書いた絵が何かの拍子で評価されて高い価格がついてしまう、というものだ。このパロディで言いたいのは、もはや何が良いか悪いか、誰もわからないだろうということだろう。

しかしマルセル・デュシャン「泉」などが示しているのは、このようなパロディ(アイロニー)こそが現代美術のあり方に不可欠であるということだ。従来は「ある作品A」「すばらしい」が明確にあり、だから美術館に展示された。しかし「泉」という名でただの「便器」が展示されたとき、この形而上学的な結びつきに裂け目(解釈項)が入る。「作品」「すばらしい」とは、一つの解釈でしかない、ことが暴露された。

美術館に「泉」が展示されることで浮き彫りにしたのは、「作品A」「すばらしい」から美術館に展示されるのではなく、美術館に展示されているから「作品A」「すばらしい」のだ、ということだ。ここでの解釈項は「美術館に展示されている」ということだ。

この脱構築によって、美術作品の「すばらしい」すべてが宙づりにされた。あるいは芸術作品そのものにすばらしさがあるのではなく、その時代に偶然的に評価されたものが展示されるという記念碑的、形而上学的なもの(アウラ)でしかない、とも言えるだろう。




コンテクストの不確実性


創造的な発想とはなんだろうか。天才的な閃き。子供のように頭の柔らかさ。ニーチェのいった「小児の無垢」。しかしこれが単なる幼稚な遊びであるか、「創造的な遊技」であるのかは、その発想そのものにあるのではなく、それを評価するコンテクスト(解釈項)との関係によってしか決まらない。入社試験の場合には評価する会社の人がその業界において身につけたコンテクストから、ありふれているか、創造的であるか、が評価されるものでしかない。

確かに商品はすぐに陳腐化し、低コスト化するために、たえず創造的なものを生み出すことが収益につながる時代になっている。だから創造性を管理し安定した収益につなげたいと考えることは企業にとって当然である。現に最近だとアップルのように「創造性」によって高い収益を上げつづけている企業がある。

創造性の管理は、いままで企業が行ってきた労働を作業をマニュアル化し時間で管理するようにはいかない。お金をかければそれだけ生まれるというものでもない。この創造性のとらえどころになさは、労働時間=結果というような2項では評価されず、そこにコンテクスト(解釈項)が入ることで偶然性が高まることにある。

コンテクストとは、社会性という流動的で不確実なものでしかない。これをマーケティングリサーチ的で捉えようとしても難しい。それは絶えず変化しているだけではなく、「今」を裏切ろうと変化するからだ。




創造性を引き受ける責任


結局のところ、創造性に重要であるのはリスクを引き受ける企業の責任にあるのではないだろうか。ある発想を創造的なものであると評価し、リスクをおそれずにその実行にGO!を出す決断と、当然起こる初期的な不良(失敗)に忍耐をもち、それでも多くが失敗するだろう失敗と再トライへの寛容。これらのものを許容する「企業の責任」

社内プロジェクトが成功しない、ベンチャー企業が育たないといわれる日本社会に不得意なものだろう。単なる知識量ではなく、発想豊かに人を求めるというのはおもしろいが、地頭力という形而上学的なものを過剰に求めるのは、企業責任の回避であるとも思えてしまう。


「富士山をどう動かしますか?」・・・「富士山」「フジヤマ」ゲイシャ」「デンカセイヒン」と日本の名物として世界的に有名なので、名前貸しする。富士山は世界中を動き回ります・・・ん〜ありふれてるな・・・
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