「現実とはなにか」 これまでのストーリーは・・・
1 アブダクションとレトリックと真理 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080313
2 情報化社会は脱構築する http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080317
3 快感を訓練する http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080321
4 成功した性関係 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080325
5 「女は存在しない」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080327
6 貨幣の魔法 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080328
これまでのストーリーは・・・。
問題はウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」はいかに成立しているかだった。なぜウィトゲンシュタインなのか。様々な人々が<言語記号−概念(意味)>の結びつきに切れ目を入れたが、ウィトゲンシュタインほど鋭く切り裂いたものはいないからだ。それは、「日常会話」から、「数学」から、「痛み」、あるいは「認知」までに至る。
この「切れ目」が開いたままでは、人は行為の前でフリーズしてしまう。そして神経症的に狂気にいたる。人がフリーズせずに「言語ゲーム」を生きているということは、「切れ目」を補う第三項があるということだ。それがまさに「現実」である。
ウィトゲンシュタインはそれを「規則に従う」と呼んだ。規則があり解釈し従うのではなく、「規則に従う」と行為する。あるいは社会学的には、コンテクスト分析につながる。「断絶」を補うためのコンテクストがあり、ドラマ(劇)、ゲーム、テクストとして分析が可能だ。
これらの原理を説明する一つの方法が、超越論だ。「言語ゲーム」は無意識に盲目的な「信念」を基底にしている。「現実」はみなもそのようにするだろう「信頼」によって成立している。たとえばウィトゲンシュタインの「数学」、あるいはマルクスがいう「貨幣」の物神性が例に上げられる。これを突き詰めると、構造主義、そしてラカンの否定神学的な主体(欲望論)に到達する。
では、
・ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の成立は超越論的にしかないのだろうか
・「メタ言語(制作)図式」のような階層論は単なる無意味なものだろうか
・マルクスが貨幣の超越性の先に見たものは