なぜ「フレーム問題」は錯覚なのか 「陶酔する人工知能たち」その2

pikarrr2008-05-23



先のエントリー「なぜ人は人工知能化するのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080522#p1)について、いくつか反響をいただきました。説明不足から誤解を与えているようなのでid:raurublockさんとの議論を参考にボクの考えをもう少し説明してみたいと思います。




「フレーム問題」という客観主義的な錯覚


人に人工知能「フレーム問題」が起こる、というのは客観主義的な錯覚です。客観主義とは自らを<観察者の位置>(神の目線)におき、現象(フレーム)を観察することです。これによって現象(フレーム)は<観察者>とは切り放された客観的に存在することになります。基本的に科学は客観主義です。

とくに人の認知について考える場合には、自らも現象(フレーム)の一部であり、現象に影響を与えることを考慮する必要があります。たとえば神経生理学などの実験によると、人の神経回路は入力(情報)を流し込めば出力(認知結果)が出る機械ではなく、入力(情報)とは別に自立的に解釈し出力(創作)するということが明らかになっています。

人間の色知覚については、神経生理学的にみるときわめて微妙なことが生じている。・・・色知覚では条件しだいで、同じ波長の光が異なった反応をし、光の量が乏しければ、赤より青の方が支配的にみえる。徹夜した朝の夜明け前、街並み全体が青みがかって見える。色知覚は「不規則な反応」をすることが多い。にもかかわらず人間の眼が色調を区別する場合には、三万五千種程度区別することができるらしく、「高度に分節している」。・・・物理的刺激との関連では、同じ物理的刺激が異なった色知覚をもたらし、異なった物理的刺激が、同じ色知覚をひきおこすこともある。つまり物理的刺激と色知覚との関係は「非対応」である。

また物理的な電磁場の波長スペクトルは連続的だが、色知覚においては、「赤」「オレンジ」「黄」のように質的な差異として不連続になる。そのため色知覚は「構成的」に生じる。色知覚では、経験科学的な以上のような特質が明らかになっている。

これらをもとに神経システムの作動のありかたを考えてみると、以上のような帰結が得られる。神経システムは、外的刺激を受容してそれに対応する反応をするのではなく、むしろそれじしんの能動的な活動によって視覚像を構成する。P162-163


オートポイエーシス―第三世代システム」 河本英夫 (ISBN:4791753879

すなわち観察者と現象(フレーム)は切り離せず、現象(フレーム)は<観察者>の解釈との関係で現れます。そして<観察者>の解釈はその時の現象(フレーム)から影響を受けるという相互関係にあります。だから人間の認知の場合、「フレーム問題」のようなフレームが固定するのは客観主義的な錯覚であって、フレームは絶えず変化しています。




<行為によりフレームがかわる>


先のエントリーでいった「認知とともに行為している」「認知によって最適解が収束する、しないに関わらず、すでに行為してフレームは変化しつづけている。」ということは、たとえば

ネズミっぽい?→<行為によりフレームがかわる>→違う。ウサギっぽい?→<行為によりフレームがかわる>→耳が長い?→<行為によりフレームがかわる>→白い?→<行為によりフレームがかわる>→・・・やっぱりウサギだ

ここでいう行為とは、よく見るでも、近づくでも、息をのむでもいいのです。行為は<観察者>の解釈に影響を与え、そして現象(フレーム)に影響を与えます。それによってフレームはわずかずつでもかわっています。ただ人の認知は<行為によりフレームがかわる>をどこからかやってきた閃き(直観)と錯覚するかもしれません。

たとえば「だまし絵」は能動的に<行為によりフレームがかわる>ことで違ってみえることがおもしろいアスペクト認知」の例です。しかしアスペクト認知」でもはじめて見たときから1分後のフレームはかわっています。その間に人は見方(<解釈項>)に慣れて(学習して)います。最初よりもみることが簡単になっています。

「この中に隠れているもう一つの生き物、何でしょう?」
http://www.n-i-c.gr.jp/2007web/favorite/index.html




人工知能化」という比喩(メタファー)


ボクは人が誰かを好きになると人工知能「フレーム問題」のような状況に陥るといいましたが、これは厳密な人工知能「フレーム問題」とは異なります。恋愛中でも彼女をそれほど思わない時もあれば、ものすごく気になり妄想するときもある。また他の女性に目移りすることもあるし、性的欲求不満の波が関係することもある。だから恋愛中もたえず「フレーム」は変化しています。

フレームは変化しているが、「告白する」などの行為が怖くてできないことで認知過多になり、人工知能「フレーム問題のような」状況に陥ることがある、ということです。だからボクが人工知能化」「機械化」と呼ぶのは、ある状況では人はまるで人工知能のような」「機械のような」状況が見られるという比喩(メタファー)です。

しかし比喩(メタファー)とっても人工知能化」によって「フレーム問題のような」状況が酷くなることで、日に何度も手を洗ったり、食器の汚れが気になり外食できないなどの潔癖症や、対人関係がうまくいかないという不安や強迫性など神経症につながります。




「行為でない認知は存在しない」


ボクは先のエントリーの最初で、「人が世界と関わる二つの方法、認知と行為」と二項対立で語ってきました。しかしこれまでの説明で明らかになったのは、人に人工知能のような「フレーム問題」が起こらないのは、人は人工知能のような純粋な認知がない。人の認知とは一つの(解釈)行為である。行為でない認知など存在しないということです。

人の認知と行為との複雑な関係をわかりやすく、認知/行為の二項対立の図式で語るために人工知能の例から話は始めたのですが、早くも形而上学的二項対立の脱構築に到達してしまいました。

しかしそれでも人は神経症にいたるような人工知能「フレーム問題のような」状況に陥ることがある。この「自然な振るまい」「不自然な振るまい」の差異はなにか。これがシリーズ「陶酔する人工知能たち」の一つのテーマです。(つづく)
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