再び、なぜ人は「フレーム問題」に陥らないのか 「陶酔する人工知能たち」 その3

pikarrr2008-05-29


「運動自体の知覚」


たとえばアナタは椅子に座っている。少し離れたテーブルの上にりんごがおいてある。アナタは「あのりんごを取ろう」と思い、立ち上がり、テーブルまで歩き、りんごを手に取る。ミッション成功である。ここでとても不思議なことは、ミッションを達成するまでにどのように体を使い立ち上がり、二足で前進し、手を動かしてりんごを取ったのか「知らない」ということだ。アナタが知っているのは「あのりんごを取ろう」と思い、見事に取ったことだけである。

人にとってこれらの一連の動作は考えるまでもないとても簡単なことであるが、もしこれら一連の動作ができる人間型ロボットをつくろうと考えたとき、これら動作の難解さがわかる。「立ち上がる」「歩く」「掴む」、それぞれが先端のロボット研究のテーマとなっているような高度な制御技術が必要となる。現時点で一連の動作が行えるロボットを制作することはとても困難だろう。

このような意識に上らない運動を秩序だてる知覚を養老孟司「運動自体の知覚」と呼んだ。

多くの運動は「無意識」である。ただ、この「無意識」の意味は、あんがい難しい。本棚の本を取ろうとして、歩き出す。目的の本を手にとる。これだけならなんでもないが、その過程の動作をいちいち意識したらタマらない。日常慣れた動作でも、意識したとたんにギコチなくなるのは、誰でも経験する。ふつうは目的を設定し、号令を発すれば、あとはほとんど自動的に身体が動いてくれる。P221

運動系が脳内にあり、それが大脳皮質のかなりの部分を占める以上、その運動系について、われわれはなにかを知っているに違いない。そうした「知識」こそ、・・・まさに「運動自体の知覚」であろう。P225


唯脳論 養老孟司 (ISBN:4480084398




行為に対する野心的?な考察


「運動自体の知覚」がどのようなものであるかは、認知科学の分野でもまだわかっていない。(参照 蒼龍のタワゴト 「そこでただ突っ立ってないで、考えなさい」http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20080225/p1)このために主に養老孟司唯脳論オートポイエーシス論」という行為に対する野心的?な考察を参考に以下の項目を考えてみたい。 

1) <目的論>と<無自覚>
2) <連続性>と<自立的な秩序維持(オートポイエーシス)>
3) <試行錯誤>と<訓練・経験による習得>
4) <他者の模倣>と<伝承文化>
5) <物理的環境>と<社会的コンテクスト>




1)<目的論>と<無自覚>  視覚系と聴覚-運動系の逆理


行為において「自覚」されるのは「目的(意図)」「あのりんごを取ろう」と、「結果」「りんごがとれた」だけであり、その間の行為そのものは「どのように」行われているかわからない。「ただ行なっている」としかいえない。

脳の感覚の場合と同じように、自分の運動系を知っている。それは、始めは知覚系による、運動の監視のみだったであろう。しかし、やがて運動系の脳内での機能そのものが、われわれの意識にのぼり出したはずである。それが目的論の発生に違いない。

こうした「運動の意識」は、たとえば・・・運動のプログラムをいちいち意識するようなものではなかったであろう。それでは、プログラム自体が動かなくなる。従って、その意識は、プログラム的な細部は省略するが、出力と入力はしっかりと押さえるものだったであろう。考えてみれば、それが「目的意識」である。われわれはなにかを「しようと思い(意図)」、それに「適した行動をとる(運動)」。それだけ知っていれば、行動は十分であるらしい。それ以上の細部が必要なのは、新しい随意運動を練習する時だけであろう。それもほとんど意識がないのは、よく知られている。

目的論というものが、アリストテレス以来、ヒトの思考と切っても切れない縁があるように見える。それはなぜか。われわれの脳は、運動系からいわば「目的論を取り出して」いるのではないか。P225-227


唯脳論 養老孟司 (ISBN:4480084398

さらに唯脳論では、脳の観点からヒトの活動を視覚系と聴覚-運動系にわけている。これはそれぞれ交わることがない光と音という外界情報に対応し、以下のような差異がある。これら二つは脳は「連合」しているが、そこに生まれる差異が人の行為の特徴を生み出している。

視覚系
 ・「物事をひと目でみてとる」、無時間性、構造。
 ・コマ送りの形で時間=運動を構成する。映画。
 ・純粋な視覚は、瞬間か永遠かを表現する。


聴覚−運動系
 ・時間軸の上を単線で進む、機能
 ・リズムすなわち繰り返し単位が重視。音楽。


唯脳論養老孟司)より

たとえば先の<目的論>と<無自覚>という特徴は、視覚系と聴覚−運動系の差異に関係するだろう。「目的(意図)」「あのりんごを取ろう」というときに、「結果」「りんごがとれた」という無時間な視覚像が予期されている。そして聴覚−運動系の連続性によって、その間の行為そのものは無自覚に「ただ行なわれる」

視覚の特質は、「物事をひと目でみてとる」ことにある。写真はそれを典型的に示す。・・・写真というのはいわば瞬間の像である。現実を流れる時間という要素が、写真そのものの中からは、抜け落ちている。それが視覚あるいは画像の特質なのである。

音ということになると、画像とは違って、時間軸の上を単線で進む。・・・音は始めから時間の中に存在している。視覚は時間を疎外あるいは客観化し、聴覚は時間を前提あるいは内在化する、と言ってもよいであろう。

外界の事物は、ただなにげなくそこに存在している。しかしわれわれの脳はそれを、聴覚や運動系に依存して、時を含めて取り込む。あるいは視覚系に依存して、時を外してとり込む。この二つが脳の中で「連合」するのは、そう簡単ではなかろう。・・・ヒトの脳は、視覚と聴覚という本来つなぎにくいものを、いわば「無理に」つないだのではないか。その「無理」が、意識的な考察では年中顔を出す。P147-151

視覚はコマ送りの形で時間=運動を構成する。これが映画である。したがって、視覚の時間には、いわば量子が存在する。これをわれわれは瞬間と言う。それは、「視覚が構成する運動」すなわち映画であれば、一秒の十六分の一から三十二分の一である。この「量子」を固定し、それに対して他の感覚を「流せば」「永遠」という観念が生じる。・・・したがって純粋な視覚は、時間に関しては、瞬間か永遠かのいずれかを表現する。

他方、聴覚-運動系では時間は流れる。とくに聴覚では、リズムすなわち繰り返し単位が重視され・・・音楽は典型的に現れる。こうした「単位性」が、すでにのべたような、視覚との連合を基本的に可能にするのであろう。P200-201


唯脳論 養老孟司 (ISBN:4480084398




2)<連続性>と<自立的な秩序維持(オートポイエーシス)>


「目的」を達成したから行為が終わるわけではない。「りんごをとった」あと、ロボットのように立ちつくすわけではなく、行為は続く。というか生きている限り行為をとめることはできないだろう。寝ていようが行為は続いている。

そして行為の「目的」が自覚されないからといって、操り人形のように身体が秩序なくバラバラに動き出すわけではない。無自覚なときにも行為はある自立的な秩序をもって連続的に運動し続けている。このような運動の連続的な自立性はオートポイエーシス・システムと言えるだろう。

物理的刺激との関連では、同じ物理的刺激が異なった色知覚をもたらし、異なった物理的刺激が、同じ色知覚をひきおこすこともある。つまり物理的刺激と色知覚との関係は「非対応」である。

また物理的な電磁場の波長スペクトルは連続的だが、色知覚においては、「赤」「オレンジ」「黄」のように質的な差異として不連続になる。そのため色知覚は「構成的」に生じる。色知覚では、経験科学的な以上のような特質が明らかになっている。・・・これらをもとに神経システムの作動のありかたを考えてみると、以上のような帰結が得られる。神経システムは、外的刺激を受容してそれに対応する反応をするのではなく、むしろそれじしんの能動的な活動によって視覚像を構成する。P162-163


オートポイエーシス―第三世代システム」 河本英夫 (ISBN:4791753879

「だまし絵」は視覚系に対応する。「うさぎ(鳥)」にみえた「結果」は無時間であるが、「〜として見る」という行為が無自覚に働いている。だからだまし絵の驚きは「うさぎ」「鳥にもみえる」というフレームシフトにあるのではなく、この二つにしかみえないということにある。そこには「うさぎとして見る」「鳥として見る」という「自立的な秩序維持(オートポイエーシス)」が無自覚に働いていることを自覚させられるのである。このような「〜として見る」という行為は見る時にはいつも無自覚に働いている。




3)<試行錯誤>と<訓練・経験による習得>


行為は生まれたときからできるわけではなく、「立ち上がる」「歩く」「掴む」などの簡単な行為でも後天的な訓練・経験によって獲得される。だからいつも試行錯誤を基礎としている。そしてこのような訓練・経験という試行錯誤によって、オートポイエーシス・システムとしての行為は生成・維持されるのである。

訓練・経験の反復によって「飛び上がる」「速く走る」「飛んでいるものをキャッチする」などさらに高度な行為につながっていく。これらには筋力の向上も重要であろうが、スポーツ選手の例でわかるように反復された訓練・経験が重要となる。

運動系には、もう一つ大切な性質がある。それはいわゆる試行錯誤である。・・・ヒトはそれをしばしば「経験」と呼ぶ。その意味では、運動ないし行動には、始めから「間違い」が許されている。運動系は「やってみなけりゃ、わからない」のである。P232


唯脳論 養老孟司 (ISBN:4480084398

オートポイエーシスの機構に相応しい典型的事例は、身体行為の形成に見られる。・・・たとえば初めて歩き始める幼児は、一歩歩くごとに歩行する自己を形成する。一歩歩くことが、そのつど歩行する自己の形成になっている。そのため二度と同じ一歩を踏み出すことができない。歩行の反復は、反復する行為のあり方をそのつど変貌させていく。P45


オートポイエーシスの拡張」 河本英夫 (ISBN:4791758072



4)<他者の模倣>と<伝承文化>


このような訓練・経験は他者を真似ることを基本にする。そして行為そのものは言語によって記述することが難しいために身近な他者の身振り手振りの観察を真似ることで習得していく。そして人から人へ伝承されることで文化が生まれる。

一般的に文化は文字によって伝達されると考えられるが、言語も行為である以上、言語行為そのものは書物だけから学ぶことはむずかしい。言語を覚えるのは書物から学ぶ以前に、他者の言語行為を真似ることで学ぶ必要がある。

たとえば学校で国語的な言語を学ぶ場合も、先生の言語行為を模倣することで習得するのである。そしてそのときは、学校が「正しいこと」を学ぶ場であり、先生が「正しいこと」を教える人であるというコンテクストの中で、国語的な言語は習得される。だからテレビから学ぶ言語行為は「正しくない」「おもしろい」コンテクストとして習得される。

そしてこのような言語行為の学習の経験が、その後の書物を読み学習することを可能にする。行為の模倣の重要性を考えると、映画の発明以降の動画メディアの発展は必ずしも現前する他者を模倣する必要はなくなったっている意味で、人の世界への関わり方を大きく変えただろう。




5)<物理的環境>と<社会的コンテクスト>との関連性


行為はオートポイエーシスな自立性を持つだろうが、「(物理的な)環境」とのアフォーダンスな関係性で行われる。「立ち上がる」行為は座っている椅子との関係、「歩く」のは床との関係、「掴む」のは「りんご」との関係として行われる。たとえば不安定な椅子や、凸凹の床、つるつるの「りんご」では、その行為は慎重に行われるという微妙に異なった動作になるだろう。

逆にいえば、商品デザインの基本は、行為を補助することにある、すなわち聴覚-運動系を無自覚化することを目的とする。椅子はこの椅子に座って転けないかと自覚しないように、床は歩いて躓かないかと自覚しないように、空調は暑い寒いと自覚しないように、アフォーダンスデザイン」されることを基本とする。

アフォーダンスとは、動物(人間)に対して環境が提供するために備えているものであるとする。すなわち、物体、物質、場所、事象、他の動物、人工物などといった環境のなかにあるすべてのものが、動物(人間)の知覚や行為をうながす契機をつねに内包している(アフォーダンスをもつ)。たとえば椅子は「座る」ことをアフォードしているし、床はそこに立つことをアフォードしている。

http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/a_j/affordance.html

さらに複雑であるのが、「社会的なコンテクスト」の影響である。「社会的なコンテクスト」の分析において、「ドラマ(劇)、ゲーム、テクスト」という3つのファクターが必要であるといわれる。特に「ドラマ(劇)」ではその人、あるいはその行為の社会的な背景が問題になる。




再び、なぜ人は「フレーム問題」に陥らないのか


これら行為についての考察をもとに、先の「フレーム問題の寓話」を考える。まずこの問題設定そのものが視覚系の思考である。先に無時間な視覚像として「結果」「バッテリーを回収する」が想定されてそこまでの「フレーム」の可能性が解釈されるという筋立てである。しかしこの筋立てでは無数のフレームの出現するのは必然であり人工知能はフリーズするここには聴覚−運動系の思考が欠落している。

人が行為するとは、先の「りんごをとる」例でいえば、目的=「あのりんごを取ろう」、結果=「りんごをとった」「無時間な視覚像」が認知されたあと、事前に最適解が求められるのではなく、行為は「試行錯誤」として行われる。しかしそれが「試行錯誤」でなく、最適解をたどったように錯覚されるのは行為そのものが「無自覚」で行われて「りんごをとった」という結果のみが自覚されるという、視覚系と聴覚−運動系の逆理による。

そしてこのようなスムーズな「試行錯誤」が可能であるのは「訓練・経験」のたまものである。人は「立ち上がる」「歩く」「掴む」などの行為することに関して十年以上の訓練・経験をつんだ超ベテラン選手なのだ。

「フレーム問題の寓話」の例を人が行う場合も同様に考えることができるだろう。ただ「バッテリー回収する」だけならば「りんごをとる」ように鼻歌まじりにできるだろう。しかしロボットを吹き飛ばすぐらいの「時限爆弾が仕掛けられている」と事前に知っているとそう簡単ではない。その行為はかなり慎重にならざるおえないだろう。状況を観察しては行為しまた観察し行為することが慎重に繰り返される。「バッテリーを回収する」までに「無時間な視覚像(フレーム)」は何度も何度も作り直されるだろう。

さらにいつ爆発するかわからないという「死への恐怖」から行為を継続することができなくなるかもしれない。まるで人工知能のように運動する前に様々な状況(フレーム)を考えすぎて「フレーム問題」に近い状況に陥るかもしれない。

これを乗り越えるために重要なことは、爆弾に対処する事前の「訓練・経験」である。「訓練・経験」はこのような状況でどのように振るまえば良いかを教えてくれる。さらには爆弾に対処するための道具・装備などの「物理的環境」の使い方を覚えることで、爆弾がある状況でも行為することを容易にするだろう。

さらに重要なことは、なぜ死をかけてまでこのような危険な作業をしなければならないのか、という「社会的なコンテクスト」である。そこにその人の社会的な背景(仕事、家族)という「ドラマ(劇)」をもとにした使命がなければ誰が引き受けるだろうか。(つづく)