なぜ自由競争は経済学の倫理なのか

pikarrr2009-03-20


一般人やその代表である議員は、国際貿易を考える際には、一種のスポーツ競技のようなものとして見ている。アメリカ合衆国アメリカ製品を世界市場に売り込もうとしているように、日本やドイツ、中国も自国製品の売り込みに懸命なのである。多くの人々にとって、国家間の競争は会社間の競争にきわめて似ているように映っている。・・・とりわけ雇用問題がかかっているような深刻な経済問題の場合はなおさらである。

ところが、比較優位説を信じている経済学者には、世界は全く違ってものに見えている。彼らにとって国際貿易はスポール競技とは違って、相互に利益を生むような財・サービスの交換過程であると捉えられているのである。この交換過程に介入することは、たとえ他国が報復に出なかったとしても、自国経済に損失をもたらすことになる。

比較優位説は経済学者だけが理解しうる美しい考え方であり、経済学者は、あたかも経済学者であることを認定し、知的優越を証明してくれる一種のバッジのようなものであるかのように、その考え方に固執しているからである。事実、「比較優位の原理を理解している」とか自由貿易を支持する」といった発言は、経済学者の信条の一部を形成するまでになっている。

これは皮肉に聞こえるかもしれないが、実際のところ経済学者の国際貿易に関する考え方は大方正しいのである。一般人の国際貿易観というのは雌雄を決する闘争というものであるが、それは間違った考え方である。P340-343


「経済政策を売り歩く人々」 ポール・クルーグマン (ISBN:4480092072) 1994




経済の活性と社会の尊厳


経済学の自由競争信仰は資本主義の倫理である。このマクロな倫理は最近でいえば環境主義に似ているだろう。地球環境という神の(見えざる手)位置=マクロな位置に立てば彼らのいうことはまったく正しい。

地球環境問題は痛みをともなっても人類が取り組んでいかなければ問題であるように、自由競争も同様である。自由な経済があり、人々が社会的、政治的なつながりを越えて、(リスクに対する)チャンスにインセンティブをもち経済へと懸命に参入しつづけることでこの豊かさは継続する。

ただ現実には人々には生活がある。生きるための(労働の再生産のための)必要な条件があり、さらに社会的な関係がある。社会的な関係は、場所、人々、仕事、趣向への愛着であり、それが人の尊厳を支える。経済学では社会的なものは、貨幣価値に還元され、物象化され、解体されるが、決して貨幣交換の合理性に還元されない。




自由競争という形而上学


さらに経済学の自由主義信仰は自由競争を自然なもの(神の見えざる手)と考える楽観主義である。自由競争はすぐに社会的関係、政治的関係に巻き込まれてしまうという綱渡り状態にある。だから自由競争は国家などの上位の管理などの高い社会秩序の上でのみ成立する。すなわちすでにはじめから権力闘争の場であることから逃れられない。

地球環境問題の会議が必ず政治的な駆け引きの場になるのは、倫理的な地球環境問題が政治的に毒されるのではない。政治的な場があるから地球環境問題は協議することが可能になるのだ。同様に自由経済が先にあるのではなく、政治的な場があってはじめて自由経済は可能になる。経済学の楽観主義はこれを転倒する。形而上学的に純粋な自由競争経済というものがはじめにあったように語る。

だからこそ、自由競争への信仰を社会に発信し続けることが経済学の倫理、政治的な存在意義である。

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