なぜ誰もが誰かを助けたがっているのか 映画「容疑者Xの献身」

pikarrr2009-03-23

助けることの困難さ


現代の人間関係は冷たいと言われる。これは必ずしも正しくない。なぜなら現代社会では冷たくすることは、必要以上に他者に干渉しないという現代の儀礼であるからだ。だから安易に他者を助けることは、大きなお節介、干渉であり、さらにはそこにいかなる見返りを求められるのかと脅威ともなる。現代において、人を助けるという行為はとてもむずかしいのだ。

現代においてペットを飼うことの理由の多くは、ペットという存在はなんの気兼ねもなく、無償に助けることができるからだ。現代では、家族であっても、また恋人であっても無償の愛を注ぐことは難しい。だから人はペットへ無償の愛を与える。そしてそれが癒されるのだ。

さらに現代の贈与の難しさを表す現代的な例がオレオレ詐欺である。なぜいとも簡単に騙され、大金を与えてしまうのか。その根底には現代人の贈与することへの飢餓がある。子供に泣きつかれた親は、助ける機会に飛びついてしまう。

本来の贈与はもっと社会にありふれたものだった。助け合わなければ生きていけず、生活を支えていた。それに代わり、現代の生活は商品-貨幣等価交換に支えられている。人々は労働し、お金を稼ぎ、商品を消費する。このような貨幣交換の活発な活動によって物質的な豊かさが達成されている。もはや過剰な助け合いは必要がないどころか、貨幣交換経済を妨げる可能性さえある。さらに豊かになった社会では、個人の趣向は多様化し、他者からの贈与は干渉として表れる。だからこそ、他者に必要とされているという贈与は貴重なものとなっている。




「石神は花岡靖子に生かされていたんですね。」


映画容疑者Xの献身ASIN:B001OF63WEhttp://yougisha-x.com/をDVD鑑賞。これは無償の贈与(純粋贈与)をめぐる物語である。現状に絶望した孤独な男が無償に献身できる「幸運」をえる。

*注 ネタバレあり

石神(堤真一)がいくら天才であっても、自らの利益のために犯罪を行うことはなかっただろう。花岡母娘を助けるという贈与する機会によってはじめて犯罪を行う。

その完璧さは恐るべきものである。単に母娘の殺人犯罪を隠蔽してあげるのではない。母娘はなにが起こっているか知らずに、警察に真実を述べるだけでアリバイが成立する。そして見ず知らずの男に助けてもらうことで母娘は見返りを求められるのではないという恐怖心を持つが、それさえも計算に入れ、石神は自らが犯人として逮捕されることで母娘の前から消えようとする。

すなわち母娘はただなにもなかったように生きていけば良いのだ。そして母娘さえも気付かない完全な贈与によって石神は生きることへの深い満足を取り戻すことができるはずだった。

しかしガリレオ湯川(福山雅治)によってすべての真実を知った花岡靖子(松雪泰子)は、はじめて与えられた贈与の大きさを知る。そして彼女は当然、自首するのだ。彼女は石神の献身をむげにするつもりはない。ただの隣人であった石神にそこまでしてもらうわけにはいかないという当然の行為をするだけである。

ただの隣人から決して返礼できない贈与をされたことを一生背負っていくことなどできないだろう。そのとき石神は無償の贈与を与えた神の位置から、ただの犯罪者、そして悲しく孤独な者であるという現実へ再び戻される。

容疑者Xの献身は現代人という存在のもつもの悲しさを見事に描き出している。薫(柴咲コウ)の最後のセリフ。「石神は花岡靖子に生かされていたんですね。」現代人は誰もが誰かを助けたがっている。無償の愛を受け取ってもらえる者を求めている。そして「生かされたい」と思っている。しかし成功することはないのだ。