ネオリベラリズムの格差はいかに生まれるのか

pikarrr2009-06-25

1 競争と格差


ネオリベラリズムのポストフォーディズム

ネオリベラリズムの理念は、個人を経済的な競争単位にすることで、生産と消費、生産場と生活場、金銭経済と非金銭経済などの境界を解体し、社会の経済的な競争を促進して経済成長によって豊かな社会をつくる、ということだ。


・貨幣依存社会とマクドナルド化

ネオリベラリズムでは「金で買えないものはない」ことが目指されるだろう。すべてを自由経済市場へと組み込むみ競争することで経済が成長する。マクドナルドではみな家畜のように静かに食事をしているのは、競争する個人のための安価・安全・安定・すみやかな休憩所(サービス)であるからだ。静かにしながら各人の内部では競争への闘志や圧力が秘められている。このような休憩所(サービス)によって次の競争へ向かうことができる。*1


・経済・社会・政治からも取り残され人々

ネオリベラリズムでは、個人が経済的な競争単位となることで、「助け合いの社会」が解体される。それを補完するのがマクドナルドなどの安価・安全・安定・すみやかな休憩所(サービス)である。しかしそれとともに教育、医療、介護などの高度なサービスは高騰する。豊かな者は高額・高度なサービスを受けられるが、孤立した貧しい者たちは取り残される。ここは行政による補助(福祉)の領域であるが、ネオリベラリズムでは格差は競争を生み出す原動力として補助は最低限に抑えられる。




2 闘争(メタ競争)と格差


・法治社会の競争

ネオリベラリズムの競争社会は当然、多くの衝突を生む。これらは利害関心を重視した法制度によって公平に裁かれることが目指される。しかしこのとき法制度という「制度的枠組み」が剥き出しになる。剥き出しになるとは法というルールのもとでの競争以上に、いかに法を解釈し利用するかというメタ競争=闘争の次元が開かれる。


・エリート世界=闘争(メタ競争)の次元

闘争(メタ競争)によって、競争はより高度、複雑、専門化になり、高額な専門家を必要とする。そして優秀な専門家を調達するということは、競争を優位にする以上に、メタ競争レベルへアクセスできるということを意味する。メタ競争レベルとは、たとえば金融市場へ投資して利益をえる競争レベルではなく、政府へ働きかけ優位な法を作り出す、新たな金融商品を考えて流通させる仕組みを作るなど、社会のルールそのものを作り出す「真実創出」の次元であり、エリート達の競争世界である。


「経済生活」「資本主義活動」

ネオリベラリズムには二つの次元がある。一つは経済成長のために個人間の競争を促進する「経済生活」の次元。これは経済学者が研究するレベルである。もう一つは枠組みを優位にアクセスし「経済生活」から効率的に投資収益を上げる闘争(メタ競争)の「資本主義活動」の次元。これはエリートたちによる政治のレベルである。すなわち二つの次元はネオリベラリズムの格差構造を表す。


・グローバルな富の吸い上げ

どのような社会制度にもエリートがいて、闘争(メタ競争)レベルが存在するだろう。むしろ自由主義社会は少ないぐらいだと考えることができる。確かに自由主義社会が拡がることで経済が成長し豊かさの底上げが行われた面もある。それとともにネオリベラリズムはまたいままでのどの社会制度よりもより格差を広げていることも事実である。ネオリベラリズムの二層構造の優位性はグローバルなレベルで一気に富を吸い上げることができることだ。マクドナルド」「グローバルな公共空間」のごとく世界中に拡散し続けていることはその痕跡の一部である。
*2

*1:競争はただ目先の利益競争ではない。厳しい社会を生き抜くことそのものである。ネオリベラリズムでは生き抜くことはほぼ経済的なものに根を持つ。

*2:画像元 http://search.searchina.ne.jp/wiki/?%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AD&html=0