なぜサンデルは日本人に受けたのか  日本人の「やらかい場所」

pikarrr2010-10-18

日本人の「やらかい場所」


現代、特に最近は自由主義経済で生存を支えているから、誰もがリバタリアンなんだろうけど、なぜか日本人としていかに共同体を重視しているか語ることが避けられている。この奇妙さはなんだろうかと思う。

なんというか、心の中のやらかい部分をさわられるのを嫌がるように、見事に無意識に見ないようにする。これってほんと何だろうかと思う。自らの本心を除くのが怖いのだろうか。たとえば、父母のこと、子供のことのこと、生まれ育った場所のこと。その部分を哲学思想と繋げることへの強い拒絶反応。




サンデルのいらだち


仏教伝来から、日本人は外来文化にカブレながら、絶対に共同体的なやらかい部分はさわらせなかった。むしろ仏教を共同体的な部分に近づけ改良した、といわれる。西洋哲学にしても同じなんだろうね。日本人の思想議論のなんか嘘くさいさ。どこか小演劇で小芝居している。絶対に外来文化に心開かない日本人。

芥川龍之介はたくさんの短編小説を書いていますが、素材から見て、主に、明治の文明開化期、十六世紀のキリシタン平安時代「今昔物語」などに依拠しています。それらの選択は恣意的に見えます。しかし、よく見ると、芥川に、彼が生まれる以前の日本人が、外国の文化や思想をどのように受け取ったかという問題を検証しようとする一貫した意思があったように思われるのです。

それを明確に示すのが、「神神の微笑」という作品です。これはいわゆるキリシタンものの中で最も重要な作品です。ここには特に筋のようなものはありません。主人公、イエズス会の宣教師オルガンティノは、日本の風景を美しく思い、キリスト教の広がりにも満足しているのですが、漠然と不安を覚える。「この国の山川に潜んでいる力と、多分は人間に見えない霊と」戦わなければならないと、彼は考える。彼はしばしば幻覚におそわれるのですが、そのなかに老人があらわれます。彼は日本の「霊の一人」であり、日本では、外から来たいかなる思想も、たとえば儒教も仏教も、この国で造り変えられる、と語ります。《我我の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。》P62


「日本精神分析 柄谷行人 (ISBN:4061598228

サンデルも、テレビが受けて、本がベストセラーになって満足しているが、漠然と不安を覚えただろうね。それでも真に心を開いていない日本人にいらだちを覚える。日本では、外から来たいかなる思想も、たとえば儒教も仏教もリベラリズムも、共同体主義もこの国で造り変えられる。




「やわかい場所」=身体的な慣習文化


「やわかい場所」と呼んだのは、語れない、語らない不思議な部分だから。言語表現することが難しいのか、言語表現することが暗黙にタブーとなっているのか、それは精神性なのか、古層などと呼ぶように本当に古来からの連続性を持つのか。

ボクはそれは身体的な儀礼なんだと思う。なぜそうなのか、というような言語文化とは異なり、理由なく日本人の中で伝承されている身体的な慣習文化。それが日本人の共同体としての倫理に多大な影響を与えている。

それは語ることがタブー、だとか秘技的な精神性だとか、ましてや、右翼的な太古からの連続性を持つかも怪しいが、島国日本の中で慣習として伝承されている言葉にできない行為。




ふわふわした日本の正義


たとえば「日本人的正義は、〜だ!」というより、そのケースケースで世論として立ち上がってくる感じだよね。たとえば最近の小沢問題にしても、司法手続きとしてはどこまでも無罪なんだろうし、無罪になるだろうことはみんなわかっている。近代法の基本「疑わしきは罰せず」をこえて、執拗に日本人的正義が立ち上がってくる。このような状況をみると日本人のどこがリバタリアンなのかと思うけど。

このような集団的な漠然とした正義は、昔から強いリーダーシップによって推進力をになってきた。でも特にいまは日本人の権力アレルギーがものすごい。民主党が選ばれるのは積極的な理由ではなく、権力が弱そうだから。だからあいまいな空気がつくるふわふわした正義、世論調査が正義を決める無責任なシステム。非効率的な運営でグローバルなスピードにまったくついて行けない。なんでこんなことになっているのか。なんだかんだいって小金持ちな日本人の贅沢な政治趣向なのか。

強いリーダーシップを求めないなら、せめて「やわかい場所」を見つめ直して論理的な正義の組み立てが必要なんだろうね。




なぜサンデルは日本人に受けたのか


サンデルブームはベタに言えば、共通価値観消失不安の現代に分かりやすく価値観に富み組む基盤を提示したことでしょ。

日本人は右翼だか、共同体主義者はいないだろう。右翼はベタ、共同体主義はメタ。共同体主義とは自らが右翼であることを自覚することに始まるけど、日本人には共同体は空気のようなもので自分達が共同体重視=右翼である自覚がない。それが日本人の「やわかい場所」だ。

今までの思想軸は、個人か全体か、経済が人権か。これでは日本人にはピンとこない。サンデルはリベラル(世界経済市民)と共同体の対比基盤で語る。これらはまさにいまの日本人を分かつ立ち位置だから。リバタリアンであり、また共同体主義者であることを自覚させる。そしてそこから正義の議論がはじまるのか。

ようするにサンデル先生の教えは一言だ。日本人よ。ベタに日本人たるな。日本人たることにメタになれ!

多元的社会の市民は、道徳と宗教に関して意見が一致しないものだ。これまで論じてきたように、行政府がそうした不一致について中立性を保つのは不可能だとしても、それでもなお、相互的尊重に基づいた政治を行うことは可能だろうか?

可能だと、私は思う。だが、そのためには、これまでわれわれが慣れてきた生き方とくらべ、もっと活発で積極的な市民生活が必要だ。・・・道徳的不一致に対する公的な関与が活発になれば、相互的尊敬の基盤は弱まるどころか、強くなるはずだ。われわれは、同胞が公共生活に持ち込む道徳的・宗教的信念を避けるのではなく、もっと直接的にそれらに注意を向けるべきだ−−ときには反論し、論争し、ときには耳を傾け、そこから学びながら。

道徳に関与する政治は、回避する政治よりも希望に満ちた理想であるだけはない。公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ。P344-345


「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」 マイケル・サンデル (ISBN:4152091312)


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