なぜ日本人論は必ず失敗するのか

pikarrr2010-10-19


ふむふむ  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20101018#p1コメント欄より


チリ人は非常に特殊な形である種の文化を享受して〜みたいな文章をチリ人とかが書いてるのを見たら、たぶんそれってどこの国でも言えるんじゃない?って感想を抱くと思う。

というかある国や文化を「特別だ」と思ってしまったとき、その種の「特別だ」という主張を他の国の他の文化の人が主張したらどう聞こえるかを想像すると、「自分は〜を特殊なものと見ることで何か別のことを遂行しているだけなのではないか」と感じるようになると思います。つまり日本論を語ることがそれ自体、偏見を強化しているだけではないかと・・・。ドイツ人にも色々いることはドイツの小学生でも知っていると思う。




「日本人的なもの」を言語記述する困難


日本人が日本人にメタになるのは海外と接するときでしょ。初めて海外に渡ると誰もがカルチャーショックを受ける。海外の文化の不思議というより、日常当たり前だったことが当たり前でない事実。日本人論の多くはこのような海外体験をもとにかかれました。

日本人論の問題は、「日本人的なもの」がないのではなく、「日本人的なもの」を言語記述することが難しいことです。当たり前すぎで気付きにくいためだけではなく、慣習として身体に埋め込まれている。たとえば「どのようにものを持ち上げているか正確に記述せよ。」といわれると困ることに似ています。どのように五本指を動かし、腕、肱をつかっているのか。さらに持ち上げるという意志はいかに持ち上げる行為として実現されているのか。

海外に渡った日本人は日本人にメタになり、そこに「日本人的なもの」を発見します。しかし言語として表現することはむずかしいので、さまざまな表現をつかい記述しようとします。その中で、誇張や、決めつけ、勘違いに迷いこむ。しかし誰もが「日本人的なもの」を発見することには違いないでしょ。




知を生業にする人たちのリベラルな倫理


「日本人」などいない。と言ってしまえば世界には人類しかいなくなりますが、本当ですか。ここにあるのは語りえぬもの、すなわちなんとでも語れるものを語るなという知識人の倫理ですね。このようなリベラルな回避は知識人の限界です。

知を生業にする人たちは信用問題として個人で倫理を背負う必要があります。なんとでもいえる形而上学を安易に語らないこと、あまり特定の団体の利益になる発言はせずリベラルな位置にいること、迂闊に他の知識人に脱構築されないよう慎重に発言することなど。

しかし本来、知そのものの倫理とは誰もが自由に、適当に語り、またそれを批判・ツッコミ、脱構築できるという全体運動にあります。一人が堅苦しい倫理を背負うことに大した意味はありません。

特にネット時代のボクたちは無理に知識人の倫理を気取る必要もなく、多いに言いたいことを語りあえばいいと思うのです。心配しなくても誰かがすぐにつっこんでくれます。そうすることで知識人もまた知を生業にすることが可能になるわけです。だって「日本人的なもの」はあるわけですからね。

多元的社会の市民は、道徳と宗教に関して意見が一致しないものだ。これまで論じてきたように、行政府がそうした不一致について中立性を保つのは不可能だとしても、それでもなお、相互的尊重に基づいた政治を行うことは可能だろうか?

可能だと、私は思う。だが、そのためには、これまでわれわれが慣れてきた生き方とくらべ、もっと活発で積極的な市民生活が必要だ。・・・道徳的不一致に対する公的な関与が活発になれば、相互的尊敬の基盤は弱まるどころか、強くなるはずだ。われわれは、同胞が公共生活に持ち込む道徳的・宗教的信念を避けるのではなく、もっと直接的にそれらに注意を向けるべきだ−−ときには反論し、論争し、ときには耳を傾け、そこから学びながら。

道徳に関与する政治は、回避する政治よりも希望に満ちた理想であるだけはない。公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ。P344-345



「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」 マイケル・サンデル (ISBN:4152091312)