なぜ日本人にリベラリズムは合わないのか2  リベラルの罠

pikarrr2011-02-03


「富の分配」議論の限界

民主党政権が陥った、「富の分配」議論に終始しないことだろう。特に民主党の場合には、最初から不安を煽りつつ富の分配を卑近な支持率につなげている感が否めない。弱者救済は重要であるが子供手当のように誰にもというバラマキには意味がない。そもそも富の分配で総国民を満足させることなどできない。さらにいえば、富は決して人に安心を与えない。

「国民共同体」にはむしろ市民社会よりも国家を補完する機能がある。身近なコミュニティ内での互酬関係、ようするに助け合いである。市場経済が浸透したいまでも、日本人の国民共同体には互酬関係の力学が働いている。以前よりも人助けを嫌うというよりも、儀礼的な無関心として、必要以上に干渉しあわない(消極的な自由を尊重し合う)という高度な助け合いという逆説が作動している。

このような機能は国家がコントロールすることではなく「神の手」に任せるしかない領域である。
そのような領域があることを認めることが重要だ。リベラリズムは往々にして全てをコントロールすることを望みすぎる。


なぜ日本人にリベラリズムは合わないのか 「国民共同体」の再生−pikarrrのブログ http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20110202#p1


xeo◆topaTViseQ


「神の手」って、それはあんまりなげやりな結論かと。国家に対抗するためにはどうしたらいいか現代思想家はいろんな提言やってるが、だいたいは交通移動、対抗的居住などなど、所有、定住、家族に対する反定立を提言してるように見えるね。そういう対抗的テーゼの必要性自体は、社会的再分配の問題を考える際には依然必要なんではないか、とも思えるな。




pikarrr


このエントリーでボクがいいたいのは「なげやり」の重要性だよ。国家がすべての国民の安全性の保障などできないが、リベラル左派政権はすべてに解を与えずにはいられない特徴をもつ。でも国民には自律的に自分達をまもる力がある。なければ生きていけない。すべてに解を与えるような民主党の発言は逆に不安を掘り起こしてしまう。

キミがあんまり「なげやり」な考えとボクを責めるとき、キミはすでに「リベラルの罠」にはまっている。哲学、言語議論するということが、気がつかないうちに、解を与えなければならないという「リベラルゲーム」に参加している。キミがいってることを、正しく言えば、「リベラルゲーム」をしているのに、「神の手」となげやるのはルール違反ではないか、ということ。

知識人はリベラルゲームをすることが存在意義であり、倫理なわけだけど、実働的に問題を解決する政治家や、国民はむしろ「リベラルの罠」にはまると、生きていけない。まじめに神経症になるか、いいかげんに中二病になるか。ブログや哲学板もリベラルゲームをすることが倫理だという擬似知識人を演じたがるが、別にそんなルールない。

いま日本人は「リベラルの罠」に陥っている。法制度として完全な解をみいださなければおちおち眠れない。貯蓄率世界一で豊かな日本人がなぜ。貧しい国ではそんなことないのに。ようするに金持ちの不安。贅沢病。暇すぎてテレビ見すぎのマスコミ病。

ネットの影響も大きいのもしれない。ネットはフラットでことばでできているから、しらずに誰もが擬似知識人を演じさせられるリベラルな空間。西洋人のようにもともとリベラルな土壌があれば一つの技法として処理出来るのかもしれないが、いきなりリベラルな空間にほりこまれると、いままで同調、調整によって問題処理をしてきた日本人はパニック、ヒステリックになる。ネット、実社会の「祭り」ネットウヨはこのようなパニックのはけ口なんだけど。

いまの日本の閉塞をすべて「心理」に還元出来ないが、経済のグローバル化や高齢化の構造的な問題とともに一因だと思う。
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