なぜ災害時に「ユートピア」が立ち上がるのか 

pikarrr2011-02-09


「災害ユートピア ― なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか」 [著]レベッカ・ソルニット(ISBN:4750510238)

[評者]柄谷行人(評論家) http://book.asahi.com/review/TKY201102080172.html

大災害が起きると、秩序の不在によって暴動、略奪、レイプなどが生じるという見方が一般にある。しかし、実際には、災害のあと、被害者の間にすぐに相互扶助的な共同体が形成される。著者はその例を、サンフランシスコ大地震(1906年)をはじめとする幾つかの災害ケースに見いだしている。これは主観的な印象ではない。災害学者チャールズ・フリッツが立証したことであり、専門家の間では承認されている。にもかかわらず、国家の災害対策やメディアの関係者はこれを無視する。各種のパニック映画は今も、災害が恐るべき無法状態を生み出すという通念をくりかえし強化している。

・・・サンフランシスコでもニューオーリンズでも、被災者の間および外から救援にかけつけた人たちの間で、新たな共同体がすぐに形成された。日本の例でいえば、阪神・淡路大震災では関東大震災のようなことは起こらなかった。当時、国家の対応が遅すぎるという非難があったが、むしろそのおかげで、被災者と救援者の間に、相互扶助的な共同体が自然発生的に生まれた。そのようなユートピアは、国家による救援態勢と管理が進行するとともに消えていったが、このときの経験から、その後に生き方を変えた人が多いはずである。私も何人かを知っている。

本書において、災害は自然災害だけでなく、戦争や経済危機などをふくんでいる。いずれの場合も、災害は新たな社会や生き方を開示するものだ。ニカラグアやメキシコでは、それが社会革命につながった。人々は自然状態では互いに敵対するというホッブズの政治哲学が、今も支配的である。だが、それは国家的秩序を正当化するための理論にすぎない。災害後のユートピアが示すのは、その逆である。国家による秩序がある間他人を恐れて暮らしていた人たちは、秩序がなくなったとたん、たちまち別の自生的な“秩序”を見いだす。それは、他人とつながりたい、他人を助けたいという欲望がエゴイズムの欲望より深いという事実を開示する。むろん、一時的に見いだされる「災害ユートピアを永続化するにはどうすればよいか、という問題は残る。しかし、先(ま)ず、人間性についての通念を見直すことが大切である。




マクロレベルの変遷


かつて「マクロレベル」といえば自然環境だった。自然環境のマクロな周期構造が、農作物の生産高を左右して「ミクロレベル」の生死に影響を与えてしまう。このために人々は神へ祈った。神へ祈るとは原-贈与である。自然環境を擬人化し贈与する。そして返礼として自然の恵み(純粋贈与)を得る。それは共同体内へ分配(贈与)された。みんなのもの(当然神を含めた)だからだ。

近代には、市場経済の発達によって第一次産業から第二次、第三次産業へ生産の中心は変化することで、人々は富を蓄積した。その富が緩衝材となり、もう自然環境のマクロ変動がミクロレベルに直撃することはなくなった。

その代わり、マクロレベルは自然環境から市場経済にとってかわった。マクロレベルで市場経済が変動し、ミクロレベルの卑近な生活は右往左往する。




現代の倫理としての贈与の禁止


しかし人々は、自然環境のように、市場経済を擬人化して祈ることはない。市場経済から得た富を共同体へ分配(贈与)することもない。なぜならば市場経済において、マクロレベルはもはや人々が到達不可能でトラウマ的な「不確実性」=神の領域ではないからだ。

市場経済のマクロレベルとは、人知による管理された不確実性=「リスク」の領域だからだ。市場経済において、「リスク」市場経済そのものの原動力である。市場経済は不確実性を「リスクとチャンス」というギャンブルとして管理する。そのギャンブル性によって、人々は資本主義経済へ殺到する。

だから逆に、市場経済から得た富を共同体へ分配(贈与)することは、不確実性を緩和して、市場のギャンブル性を損なうために禁止されるのだ。市場経済へ参加し経済を活性化させて、経済成長させて、人々への富の分配を増やす。そのために人々は、市場経済のギャンブルへ向かわなければならない。贈与してはならない。それが現代の倫理である。

自然環境に対して、贈与は不確実性を緩和する生きるすべであった。市場経済においてもその効果は有用だろう。しかしマクロレベルで見た場合に、贈与とは、えこひいきであり、期待しなくても返礼を生み出し、相手の自由を奪う。贈与によって不確実性を緩和することは、市場経済においてギャンブル性が損なわれることを意味する。




贈与したくてたまらない


贈与することはそれほど特別なことでも、人格者が行う崇高な行為でもない。誰もが普通に贈与することを望んでいると思う。

市場経済は他者の腹を探り合うギャンブルの駆け引きの競争相手することで孤独にする。それに対して、贈与は繋がりを生み出し、孤独を緩和する。だから贈与の禁止の裏側で人々は、気が狂うほどに誰かに贈与したいと考えている。

だから市場経済において贈与はカビのようなものである。排除しても排除してもどこからか、わいて気を抜くとこびりつくカビである。贈与を単に賄賂利権だけで扱っては理解出来ない。相撲取りはなぜ星を売買したのか。ほんとうに金のためだろうか。力士という小さなコミュニティの中で贈与性はなかっただろうか。

自然災害とは純粋贈与(暴力)であり、気兼ねなく、贈与(=損害を負担し合おう)できる貴重な機会である。その一瞬にユートピアは生まれる。しかし市場経済の変動による貧困は、ギャンブルに負けた者として扱われる。だからユートピアは生まれにくく、国家によって、あるいは国の認可のもとに配分され、かってに贈与することには注意を要する。
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