なぜ災害時、日本人に治安の悪化が起こらないのか 東日本大震災

pikarrr2011-03-18

なぜ日本人に治安の悪化が起こらないのか

中国、日本人の冷静さを絶賛 「マナー世界一」の声も
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110312/chn11031219080002-n1.htm


地震多発国で東日本大震災への関心が高い中国では12日、非常事態にもかかわらず日本人は「冷静で礼儀正しい」と絶賛する声がインターネットの書き込みなどに相次いでいる。短文投稿サイトツイッターの中国版「微博」では、ビルの中で足止めされた通勤客が階段で、通行の妨げにならないよう両脇に座り、中央に通路を確保している写真が11日夜、投稿された。

 「(こうしたマナーの良さは)教育の結果。(日中の順位が逆転した)国内総生産(GDP)の規模だけで得られるものではない」との説明が付いた。

この「つぶやき」は7万回以上も転載。「中国は50年後でも実現できない」「とても感動的」「われわれも学ぶべきだ」との反響の声があふれた。大震災を1面で報じた12日付の中国紙、環球時報「日本人の冷静さに世界が感心」との見出しで報じた。

この震災では日本人の特徴が表れている。1つは海外メディアから称賛されているように、治安の悪化が起こらないことだ。

みんなが苦しんでいる緊急時に略奪を行うなど日本人の「恥」である。日本人は法以前に系譜により秩序を維持している。系譜とは先祖が日本人であり子孫も日本人であること。系譜においてみなが繋がっている。いまの「罪」は先祖に泥を塗り、子孫末裔の「恥」である。「罪」が個人にかかるものとすれば、「恥」とは自らだけのことではなく、系譜の辱めに根ざす。

しかし東京において同じことが起こったとき、はたして同じように秩序維持されるかは、疑問がある。都市では様々な土地から集まった人々であり、系譜の力が働きにくい。そのような人口集中地帯では、より一時的な生活必需品不足は起こりやすい。逆に中途半端な集団同調圧はカスケード(雪崩式)にパニックを生む可能性が高く、称賛されるような日本人秩序、「恥」の力を期待するのは困難かもしれない。




日本人の政府への従順さと依存


もう1つの特徴は、このような日本人の高い秩序維持の反面として、「従順さ」があらわれている。外国人からいわれる日本人の主体性のなさ、である。特に原発対応ではみなが政府へ高い信頼をおいている。政府を運営するのも系譜秩序に組み込まれた日本人であり、見捨てるようなことをするわけがない、という信頼。このような政府への高い信頼は依存とも言える。

原発の件を、幾人かと話したが「大丈夫、大丈夫」という従順さの力は強力であった。政府がいうんだから大丈夫、またみなが大丈夫というんだから、ここで逃げたら末代までの恥といわんばかりで、誰もが不安であることは確かだろうが、議論することも回避するような、判断停止に陥っているともいえる。




自らの判断することを求める西洋市民


おそらく西洋人が日本のTVを見た場合に、政府、メディア、科学者などがみな口裏を合わせたように、大丈夫、大丈夫と言い続ける姿は気持ちが悪いだろう。国民がパニックにならないように不安を与えるような発言は避けることを、メディアが自主的に心がけているのだろうが。

それが嘘だということではなく、大丈夫ではないという発言もあるべきで、様々な意見が公開されて、そこから判断するのは、市民であるということが西洋的な考え方だ。西洋の場合、絶えず政府への懐疑があり抗議があり、政府への不信の担保として自律した市民活動がある。個人の自律を基本とする彼らにとって社会秩序のために明文化された契約が重要になるが、個人の分断を補完するために市民活動がある。日常からある積極的なボランティア活動はその一部である。




日本人的な系譜重視と、西洋人的な契約重視


国家運営が順当であるときはよい。たとえば経済成長が順調な間は。しかし現在、日本人の政府への不満は高い依存の裏返しとしての過剰な期待を生み出している。そのようなものは決して満たされることがなく、次々と政党を、そして首相の首をすげ替えるが、状況は悪くなる一方である。そこには自律した市民活動へ向かうことはない、どころか、そのようなものは、系譜秩序を裏切るものとして嫌われる傾向さえある。

日本人的な系譜重視と、西洋人的な契約重視。これらはそれぞれの社会秩序のあり方で、一長一短あるだろう。このような非常時において、日本人的な系譜秩序がいかに根深いものであるか、あらためて表れている。

目先心配なのは、原発事故である。すでに危機的な状況であるがさらにひどいことが起こった後に、政府やメディア責任を問うても、仕方がない。あくまで判断するのは各人であり、リスクを背負うのも各人である、ということ。そして首都圏を離れるという選択肢は十分に考慮すべきである。おそらく西洋人的には自らそのように選択した者を非難することはないだろう。
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