なぜルフィは仲間にこだわるのか ワンピースの爽快感

pikarrr2011-05-16

なぜルフィは仲間にこだわるのか


ひさしぶりに「ワンピース」のコミックをまとめ読みした。最新刊までの十巻あたり。前半のクライマックスのマリンフォード「白ひげ大戦争。やっばりワンピースはおもしろいね。尾田栄一郎は天才だね。

ワンピースの面白さの一つはその突き抜けた爽快感だ。ルフィはゴムの能力者ということで伸び縮みの動きにはスピード感がある。そして能力者という考えそのものが軽快だ。能力は汗水垂らして努力・根性で身につけたのでなく、実を食べたことで身につけるという「変身」である。瞬間に変身することには爽快さがある。

それとともに重要なのが、ルフィの考えが明快なことだ。「海賊王になる」「仲間を大切にする」「権力を許さない」。超天然で迷いがない。マンガであろうと「なぜ闘うのか」と行為の意味が問われる。多くのマンガでも「なぜ闘うのか」が主人公の成長のための苦悩となることが多い。

特にワンピースのキーになっているのが、自らの命をも投げ出しても仲間を大切にする信念だ。なぜルフィはこんなに仲間にこだわるんだろう。いつの時代も社会の治安が悪くなると、最後に残るのはお金でも、地位でもなく、仲間との信頼関係である。たとえば日本でも武士の時代がそうだった。

しかしそのような理屈ではなく、ルフィは悩んで「仲間を大切にする」ことを悟ったわけではなく、物語の最初から完成された価値観として描かれることに意味がある。この明快こそがワンピースの爽快さを補完している。ある意味ではルフィは最初から完成系なのだ。




ファリック・ボーイ 麦わらのルフィ


主人公の突き抜けた爽快さは現代のマンガ、アニメ作品の重要な要素になっている。特にオタクマンガでは「突き抜け」の位置には「戦闘美少女(ファリック・ガール)」がいると言われる。たとえば涼宮ハルヒの超天然さ。

このような「突き抜け」た性格は現実には精神的な病の領域である。子供は普通でも大人の基準でいえば精神的に異常なわけで、このような「突き抜け」を喜び、感染するものだが、子供に限らず大人もワンピースにはまる現代は読者がおかれる日常的な抑圧への反動と言えるだろう。だからとにかくルフィは突き抜けた爽快な存在であることが求める。

ルフィから「性的なもの」徹底的に排除されているのは、単に子供のためではない。現にそれを補完するように「性的なもの」へ異常に執着するサンジがいる。「性的なもの」を徹底的に排除することで、迷いが抜けて「突き抜け」が強調されている。

ファリック・ガールは、自ら性的な魅力について無自覚、無関心である。言い換えるなら無関心でありながらも、性的魅力を発揮せずにはいられない。こうした無関心さと、それを裏切る誘惑的な表象とのギャップは、ヒステリーの最大の特徴である。無関心さ、例えば無垢かつ天真爛漫な振る舞いこそが最大の誘惑となりうるということ。・・・「ヒステリー者の性器は脱性化され、身体はエロス化される。」・・・ここで重要なのは、受け手であるわれわれ自身が、彼女と性交渉を持つことができないという事実のほうだ。けっして到達できない欲望の対象であるからこそ、彼女の特権的な地位が成立すること。

対象にリアリティを見いだすとき、われわれは享楽の痕跡に触れている。言い換えるなら享楽は、到達不可能な場所におかれることではじめて、リアルな欲望を喚起するのだ。・・・ファルスは享楽のシニフィアンと見なされる。ファリック・ガールが戦闘するとき、彼女はファルスに同一化しつつ戦いを享楽し、その享楽は虚構空間内でいっそう純化されたものとなる。・・・ファリック・ガールに対しては、われわれはまず彼女の戦闘、すなわち享楽のイメージ(リアリティ)に魅了され、それを描かれたエロスの魅力(セクシュアリティ)と混同することで「萌え」が成立する。


戦闘美少女の精神分析 斉藤環 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060615




格闘系作品の「強さのインフレーション問題」


しかしそのような爽快さを生み出すためには作り込まれたストーリーが必要になる。ボクが最初にワンピースの虜になったのは、初期の名作アラバスター王国編」である。そこでルフィは権威・権力・抑圧という古い体制を明快に爽快に打ち破る。以後「古い体制を打ち破る」ということがストーリーの基本になるが、成功した作品には一度の感動を起こしたあとにマンネリにならずに、いかに継続するかが問題になる。

特に格闘系の作品の場合には「強さのインフレーション問題」が起こる。主人公が敵を打ち破ると、次も同じ強さの敵ではマンネリになってしまうために、さらに強い敵が必要になる。そしてさらに強い敵、さらに・・・とインフレージョンに陥ってしまう。

敵は乗り越えられる程度に少し自分より強い相手である必要がある。この相対的な位置はかわらないが、主人公がどんどん強くなるということを演出しなければマンネリになるために、絶対的に少しずつ強くなっていることを描かなければならない。

このようなインフレージョンと戦い続けた有名なマンガがドラゴンボールである。鳥山明はタマネギの皮を抜くように強さに描写と格闘し続ける。ドラゴンボール以降に半引退状態になったのは、このような作業に疲れたためではないだろうか。

いまなら「バギ」がまさにインフレーションに陥っている。とうとう最新シリーズでは、過去から原始人を呼び戻してしまった。バキでインフレーションによる破綻を押さえているのが、父・ユウジロウの存在だ。ユウジロウはこの物語の絶対的強さの象徴である。バキの敵がいかに強くなろうがユウジロウを越えることはなく、最後に乗り越えるラスボスがいることでインフレーションによる破綻は免れている。かなり追い込まれている感じは否めないが。




ブルースリーの「五重塔方式」


最近の日本の格闘系作品の原点の一つが、ブルース・リー作品だと思う。ブルース・リー作品には燃えよドラゴン「ドラゴン怒りの鉄拳」ドラゴン危機一発があるが、いかなる作品であっても結局、ブルース・リーであって、いかに強い敵と戦うかというインフレーションの問題起こった。そこで考え出されたのが、ブルース・リーの遺作となった「死亡遊技」での五重塔の設定である。各階に敵がいて次々に倒していく。このような枠組みをつくることで闘いが順序づけられてじっくり闘いを楽しむことができる。

このような枠組みは、ドラゴンボール天下一武道会などのトーナメント方式となって、いまの多くの格闘系作品に取り入れられている。なぜ傍若無人な敵がまじめにトーナメントという試合にのっとって主人公と闘うのか。ほんとの悪ならそんな枠を気にせずに、どこでもいつでも優位なときに攻めればいいじゃないか、と考えたことはないだろうか。

枠をはずしてライバルと闘うとすぐに強さのインフレーション問題に陥ってしまう。じっくりと順をおって闘いを進めることで、インフレージョン問題は延滞される。さらにトーナメント方式の良さには、いきなり主人公の登場ではなく、仲間たちの格闘もじっくり描くことができる。そして最後の最後は、主人公とライバルの闘いといわけだ。




ワンピースの「五重塔」世界


「ワンピース」ではどうか。ドラゴンボールがおそらくその場その場で手探りでインフレージョンと戦い続けたのに対して、また「バギ」がユウジロウという絶対的一点に依存し続けるのとは違い、ある時点で作者は最終回までの流れと、世界の強さの配置を考え付くしたのだと思う。「ワンピース」には王下七武海や四皇、また海軍三大将などの強者を配置した強さが配置された地図がある。

そしてこの物語にはワンピースにたどり着くという最終目的がはっきりして、そのために決まった航路をたどるという制約があり、いわば物語全体がブルースリー五重塔構造になっている。そこに強者たちが配置されている。この枠組みの中でルフィは無敵の爽快さで勝ち続け、次々とトーナメントを勝ち上がっていく。

しかし単純にトーナメント式の格闘物語ではなく、この複雑な五重塔の中で、物語が作られて、そして強者たちが動きまわる。そしてルフィはあるときは自らよりも強い相手に刃が立たないのだが、しかしそれは負けたのではない。将来にはこんな強い相手が控えているぞと匂わせるのだ。そして真に彼らが敵になって立ちふさがったときには、こんなに強くなったルフィが表れている。このようなことができるのはあらかじめ、五重塔=強さの世界地図がしっかり作り込まれて、それをもとに物語全体が練り込まれているからだろう。

まあ、これらもワンピース分析の一部である。いよいよ後半の「新世界」に突入。新世界は前半どころの話しではない、と自らハードルをさらに上げている。いままでもすごいのにさらにすごいって、マンネリにならずに爽快感と感動を与えてくれることに期待だ。
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