なぜ日本人は贅沢病なのか 原発稼働という生き抜くための選択

日本人は人類「貧困問題」を解決しえたのか


いまの民主党政権を一言でいえば、ボクは「贅沢政権」といいたい。いままで蓄積した富をいいことに、理想を語り、財産を食い潰す。はじめは理想的社会保障制度だった。それはそうそうに破綻したが、次々と現実を無視して理想を語り続ける。

それを許しているのが豊かな国民である。いまの日本の政治議論は日本から貧困を根絶し、格差をなくそうという勢いだ。これは貧しい人々が望んでいるというよりも、豊かな人々が理念的に夢見ている。このような甘い考えはいまの物質的な余裕を背景にした「良心」である。

ここで問題になるのは、はたして日本人は人類が苦しみ続けている「貧困問題」を解決しえたのか。豊かさは懸命な努力の上にかろうじて継続する。そして豊かさは誰かの犠牲の上にしか成り立たない。




貧困ないつも日本人のそばにある


ここにいまの日本人の勘違いがある。いまも貧困問題はすぐ近くにある。いまの豊かさは、歴史的な幸運と、国際的な貧困の上になりなった奇跡である。だから少しでも手を抜けば、いつ再び貧困に逆戻りしてもおかしくない。

たとえばいまの日本人の物質的な豊かさをさせる要因の一つがデフレによる商品価格の低下である。安い商品は中国などの低賃金で働く貧困層に支えられている。中国経済の台頭は日本のワーカーの空洞化を招いたと言われるが、むしろ利点の方が多い。安価な商品が大量に日本に輸入され、また高価な商品が中国の富裕層向けに輸出された。また日本ではワーカーの数を研究技術者の数が越えたが、泥臭い仕事は中国へハイセンスな仕事は日本でという仕事の質の変化を生み出している。このように近年、中国の台頭というラッキーが日本の豊かさを支えている

しかし中国も経済成長の必然としてインフレが急激に進んでいる。このままではいままでのような安い労働力を維持できなくなるだろう。またいつまで今のような経済成長を続けられるか疑問である。




島国に閉塞した贅沢病


産業革命以後、人類はたしかに豊かさのステージを上げた。しかしいまの人類の多くは貧困層であり、豊かな人々の途上国などの苛酷な低賃金労働の上に成り立っている。人類はまだまだ、「貧困問題」を解決などしてないのだ。

日本の豊かさはグローバルな環境を背景に維持されていて、そこではいまも少しでも豊かになると熾烈な競争が行われているという現実が忘れられている。ただ偶然的に豊かないまの日本の富をいかに分配するかの皮算用には将来がない。日本人は島国に閉塞し、贅沢病から、甘い理想主際を語り、現実を忘れようとしている。高度成長後、幸運な親世代が蓄積した貯蓄を子世代にわたり使い果たすまでだろう。




原発稼働という生き抜くための必死な選択


脱原発、そういえるうちが華である。脱原発議論という泥沼によって、いま劇的に産業も労働も海外へ流行している。原発稼働→人の命を軽く見る、脱原発→人の命を大切にする、という甘い対立は成り立たない。原発稼働は単に電気代が上がるということではなく、も生き抜くために必死な選択なのである。脱原発では経済競争力が落ちて大量の貧困層がでる可能性が高い。

たとえば原発が地方の犠牲の上に成り立つならば、みんなで日本人が生き抜くためにいままでのように犠牲になって欲しいとお願し、補助金を負担するしかない。誰も犠牲にならずに生き抜くほど世界は甘くない。日本の豊かさはいまの海外の犠牲の上に成り立っているのだから、青いヒューマニズム(博愛主義)などそもそも破綻している。

実は多くの日本人はわかっているんだと思う。しかし日常の豊かさの中で、政治的なシビアな議論に参加せずに静観している。まだまだ身に迫るまでには余裕があるんだろう。結局、狂った菅政権を生きながらえさせているのは「怒らない日本人」そのものだから。