なぜ日本人はガラパゴス化するのか ガラパゴス化と禅

pikarrr2011-08-28

自己産出的ガラパゴス化


NHK「クールジャパン」で紹介されていたのは日本人の雑学好き。クイズ番組大好きで、商品の容器にまで豆知識がのっている。西洋では知識と言えば、目的があり学ぶものなので大系化されているものだ。それに対して、日本人は学ぶことそのものが楽しいと目的化しているために、大系化されていない豆知識としての雑学も大好きである。日本では、ニートと言われるような人でも、労働をしていなくても、何らかの学習をしている。逆に自らの好む学習をするために無駄に働きたくないと言う程だ。これはまさにオタク文化の原点であり、日本人的自己産出文化と言われている。

最近のガラパゴス化といわれる現象もそのような日本文化の一部である。ガラパゴスというメタファーは単に閉じた文化圏というだけではない。閉じた中で、多くの試行錯誤が行われて淘汰されて進化が起こるわけだが、試行錯誤そのものが目的化していることをいう。

さらにいえば、ガラパゴスと蔑視するのは日本人であり、まさにこの自らを自らで否定することがガラパゴスな自己産出を生んでいる。ガラケーを自虐的に蔑視することでスマーフォンを取り込み新たにガラパゴススマートフォンが作り出されている。




「我無し故に我有り」による自己産出


西洋人は、目的があり、行為がある。問いがあるから答えがある。目的、問いは外部にあり、それに向かって、歩いていく、外向的である。しかし日本人は、行為そのものが目的であり、答えそのものが問いである。すなわち目指すところがあり歩くのではなく、歩くために歩くという自己産出的に行為が行われる。

まさにワビ・サビなどと言われる日本文化とは、目的があり洗練されたのではなく、洗練そのものが目的化することであれほどの高見まで達したことが、西洋人には不思議なのだ。頑張るために頑張ることが西洋人に理解できない。

ここにあるのは、禅的な「我無し故に我有り」である。自らを自らで否定することで肯定する。内的に問題を生み出し自ら解決することで運動が進む。




西洋人は神に存在の基点を求める


たとえばデカルト「我思う故に我有り」が叫んだのは、人の懐疑しえる臨界に達し、これ以上懐疑できないためであった。臨界とはその先は神のみぞしるということだ。だからこれは逆に神の存在証明にもなっている。いわば、「我があるから神がある」が、「神があるから我がある」へと転倒される。

民族的な侵略や陶太があり、土着の自然環境から遊離せざるをえなかった西洋人は、自らの存在を証明するための確かな点を超越に求めた。その方法が言語による論理的な思考である。言語論理には限界がある。そこに人が達しえない超越の存在が現れる。より論理的である程、超越の輪郭が1点に鮮明に浮かび上がる。

そしてその基点から我が証明される。我有りと言うことで神が現れることが、神があることで我有りが確かであるように転倒される。そして超越としての神という基点から人々がそれぞれつり下がる形で社会の安定はもたらされる。だから西洋人は我有りと言い続けなければならない。




日本人は土着の基底をもつ


日本人は、西洋人がこんなに必死で「我有り」ということが理解できないし、強い超越点への執着も理解できない。むしろ不気味である。なぜなら日本人は、民族的な侵略や陶太を経験せずに土着の自然環境に埋め込まれて生きてきたからだ。

日本では権力闘争があったとしても、食料生産者としての農民はただそこで作物を育ててきただけだ。もっとも大きな脅威は悪天候による飢餓でありつつけた。環境があり、そこで毎日必死で暮らしている。日本人は集団主義的といわれるが、自然環境と人々との慣習を通して調和されている。まさに土着性の基底があるために西洋人のように超越的な基点(神)は必要とされない。

世界には自然主義な民族はたくさんいるが、島国という環境からこれだけ大きい民族であるにかかわらず、自然環境との調和を重視する自然主義的なものを基本としてきた民族はめずらしいだろう。




なぜ日本人は禅的なものを必要としたのか


禅では、世界とありのままに対峙するためには、一度、言語世界を否定することが必要であるという。西洋人は禅的なものを理解できないだろう。我無しといってしまっては、存在の基点を失いただ不安がのこるだけだ。

それに対して、日本人はそもそも言語世界以外に自然環境との関係に基底を持っている自然児であり、非論理的であるとか、言語世界の否定は苦にならない。

しかしむしろ「禅的」である日本人は禅を必要としない。日本人が禅と必要としたのは逆に禅を自然環境からの脱出方法として使ったのだ。環境に埋め込まれすぎて「我有り」言うことが困難であったために、禅を使いまず「我無し」ということで、我を覚醒させた。鎌倉時代の日本の民主化の時代に、禅によって日本人の意識革命が起こった。

しかし正確には日本人は禅を理解していないのかもしれない。禅とはそもそも、論理に重きを置く仏教信者が悟りへと回帰するための方法だからだ。仏教において禅宗は主流とはなりえず、結局現代に残っているのは日本だけである。必ずしも本来の目的とは少し違う形であるが。
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