なぜ日本人はいまも「禅的」なのか  我無し故に我有り

pikarrr2011-08-25

消費社会と欲望


先のエントリー(なぜ悟りには修行が必要なのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20110823#p1) で「悟り」ベイトソンの学習論で階層的に説明した。

0次レベル・・・学習しなくてもできる本能レベル
1次レベル・・・単純な反復練習によって覚える。動物が芸を身につける、人が慣習を身につける
レベル(人以外の動物はここまで)
2次レベル・・・対象を概念として把握し理解する。言語を習得し話すレベル
3次レベル・・・概念体系そのものを操る。コンテクスト操作、創造行為、お笑いなど

この図式で、現代の消費社会を説明すると、消費社会では経済を成長させるために消費欲を活性化させ続ける必要からたえず新たに快感を生み出さなければならない。そのための2次レベルの改良が行われる。3次レベルからコンテクスト(文脈)を操作することで、同じ刺激であってもコンテクスト(物語)を変えることで新たな刺激が生まれるこの辺りの議論は60年代以降のポストモダンとして活発な議論が行われた。代表的なものがボードリヤールの消費文化のシュミラークル論である。(http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050505#p1

しかし近年の情報化社会ではさらに進んでいる。コンピューターの能力が飛躍的に向上し、たとえばゲームやハリウッド映画などのようにヴァーチャルリアリティにより、2次レベルのコンテクスト(物語)を通してではなく、直接1次レベルのより生理的な部分へ新たな刺激を与えることができるようになっている。




「逆オリエンタリズムは存在しない


現代では、侍ドラマやリラクゼージョンなどによって、禅も消費社会のための一つのコンテクストでしかなくなっている。これは「逆オリエンタリズムとでもいえるかもしれない。オリエンタリズムとは西洋人が非西洋の文化を西洋の偏向的なフィルターを通してみることをいうが、「逆オリエンタリズムでは非西洋人が自らの文化をオリエンタリズムを通してみる。

たとえばYMO「逆オリエンタリズムギャグだった。「イエロー・モンキー」という西洋人の日本人への差別的なオリエンタリズムをあえて自虐的に演じて見せることで、オリエンタリズムを脱臼させる。ここで脱臼させられているのは西洋人であるとともに、西洋人のようにしか自国文化を見られない「逆オリエンタリズムの日本人だろう自らが西洋人になったつもりでも、西洋人はいまも日本人をオリエンタリズムで見ていることを暴露する。

日本人の逆オリエンタリズムは西洋人と決して共有されていない。西洋人は逆オリエンタリズム化する日本人を含めてオリエンタリズムを見ている。すなわち西洋人にとって日本人はいまも不思議な人々なのだ。

日本人は逆オリエンタリズムによって、禅を一つのコンテクストとして相対化したつもりでも、西洋から見ればいまも日本人は「禅的」である。日本人は1次レベルでもはや西洋の慣習を学習しているので、禅はもはや3次レベルのコンテクストの一つでしかないと考える。しかし西洋人から見ると「禅的なもの」は1次レベルで日本人に伝承されつづけている。




「無我」による我への目覚め


では禅的なものとはなにか。「無我」である。我(私)は2次レベルの言語の獲得によって生まれ、欲望の元である。このために禅では、3次レベルから2次レベルの我(欲望)を解体する。そして「悟る」ために1次レベルでの「慣習の矯正」の修行によって新たに2次レベルの我を再構築する。1次レベルの慣習の矯正とは、なにも考えずにただ座禅や簡素な生活経験を繰り返す。たとえば日本に禅を広めた道元は、なにも考えず「仏祖の模倣」することを求めた。

このような「無我」は禅だけではなく、鎌倉時代以降のキーワードである。たとえば禅と共に鎌倉仏教の一つである浄土宗の他力思想は自らを捨ててただ念仏によって阿弥陀に願うことである。また「武士の習い」とは、自らを殺して主人に仕えることである。

この時代の「無我」とは逆説的に「我有り」と目覚めることだ。我という意識なく漠然と環境に埋め込まれていた日本人庶民が、「我を捨てよ」と言われることで、逆に我へ気づき、さらに我を洗練させる。

さらには、「無我」によって我が目覚めるとき、暗黙のうちに基準となる価値観が想定されていなければならない。禅宗浄土教、武士の習いが、集団行為である以上、そこにあるのは、ある価値観が共通されているという集団への目覚めでもある。

鎌倉時代に地方が豊かになるとともに、中央集権体制が崩れ秩序が乱れる。生死はそれぞれの小さな集団的自衛が担うことになった。その中で、人々ははじめて我に目覚めていった。すなわち鎌倉時代民主化において「無我」の思想が大きな役割を果たした。

大乗仏教の根本原理を即非の論理」と呼んでいる・・・例えば、「世界は即ち世界に非ず、是世界なり」、また「微塵は即ち微塵に非ず、是を微塵と名づく」等である。これを一般的な形式に引き直すと、「甲は甲であると言うのは、− 甲は甲でない、故に甲である」という方式になる。・・・肯定が否定で、否定が肯定だということになり、普通の論理ではとうてい承認され得ない非合理であり、常識外れも甚だしいと言わなければならない。それにも拘わらずこの即非の論理が、仏教的思惟の根本なのである。

仏教では、物の本然、物の真実或いは物の「在りのまま」の存在を「如」或いは「如々」と呼んでいる。即非の論理は、定立(肯定)されている概念をいったん否定し、この否定を経てもう一般肯定に戻ったときに初めて、その概念に対応するところの物が真実にとらえられると言うのである。


「日本的霊性 鈴木大拙 (ISBN:4003332318) P257-258




日本人は自ら去勢した?


なぜ西洋人が「(我思う故に)我有り」と直接的であるのに対して、日本人は「我無し故に我有り」とこんな回りくどいことになったのだろう。

たとえばいまも西洋人から言われる日本人のわかりにくさは、「私なんかダメだよと謙遜しつつ我を主張する」ような二面性である。あるいはよく言われる日本人の集団主義傾向。私が!という強い自己主張は嫌われて、我を殺すことで我を主張することが尊ばれる。

精神分析ラカンによると、そもそも欲望とは「〜がほしい」ではなく、禁止(否定)されることで生まれる。再度、学習論にもどると、人間以外の動物は1次レベルまでしかた学習できず肯定しかない。否定は、人間が2次レベルで言語を学習することではじめて生まれた。またそこに我(自意識)が生まれ、欲望が生まれる。我とはそもそも否定を契機として生まれる「ないことである」ものである。

では否定するもっとも一般的な存在は誰か。「他者」である。西洋の精神分析では、幼児が大人になるときにそれまでの甘えを社会的に否定されることを「去勢」といい、主体となる(我を見いだす)契機と考える。

人類史的に否定する「他者」とは、たとえば他の民族を消滅させることができる存在である。同じ民族内の抗争は決して民族を滅ぼすことに到らない。「他者」による否定されることで民族は我に目覚める。西洋などの多民族が近接する文化圏では文化的な「去勢」が起こり、我に目覚める。

しかし鎌倉時代まで日本人は「他者」に出会わなかった。だから「去勢」されることがなく、我も目覚めない。ただ偶然か鎌倉時代には日本人ははじめて「他者」にであった。蒙古来襲である。しかしそれがきっかけの全てではないと思う。鎌倉時代に日本人が行った「否定」は、なんと自らで自らを否定し、我を目覚めさせ、洗練させていった。そのための手法として仏教の「無我」思想が用いられた。

日本において丸山真男がいう「古層」が抑圧されなかったのは、日本が海によって隔てられていたため、異民族に軍事的に征服されなかったからである、と。日本に入ってきた宗教が仏教であったがゆえに、「去勢」がおこらなかった、ということではない。仏教は特に寛容な宗教ではありません。逆にいって、一神教が特に苛酷だということもない。苛酷なのは、世界帝国による軍事的な征服と支配です。宗教がたんにその教えの「力」だけで世界に広まるということはない。その証拠に、世界宗教は、旧世界帝国の範囲内にしか広がっていないのです。世界帝国は多数の部族や国家を抑圧するために、世界宗教を必要とした。P104

「島」においては、自らの輪郭を維持するためのエネルギーが消費されず、また、外から何でも受け入れるが、プラグマディックにそれを処理して伝統規範的な力にとらわれず創造していくことが可能になる。こういえば、宣長「やまと魂」と呼んだものが、いかにして生じたかが説明できます。日本列島には多くの種族が古来渡来してきていますが、軍事的な征服は一度もなかった。だから抑圧あるいは「去勢」がなかったのです。P111


「日本精神分析 柄谷行人 (ISBN:4061598228


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