日本人の構造と力  禅的自己産出機械

pikarrr2011-09-09

ガラパゴスと高い自己産出能力


日本人についての比喩でガラパゴスは秀逸だと思う。ガラパゴスは日本の携帯電話への比喩でガラパゴス・ケータイとして使われた。その意味は、日本のケータイは世界に誇る様々な優秀な技術がつまっているにもかかわらず、ほぼ日本人にしか普及していない。このような現象は家電製品などでも多くあり、グローバル化を見すえることがなく日本人に閉じた商品展開というネガティブな面についての自虐的な比喩となっている。

しかしこの裏にはポジティブな意味が読み取れる。ガラパゴスは進化の比喩である。進化とは突然変異と自然淘汰である。確率的に起こる突然変異に対して、自然淘汰圧がかかり、環境に適応したものだけが生き残ることで、長期的には変化(進化)が起こる。

これを日本の技術に当てはめれば、進歩は進化のような突然変異ではなく、意図的な改善であり、進歩のためには多くの試行錯誤が繰り返される必要がある。すなわち日本というこの島国で、日本人は多くの試行錯誤を繰り返し、独自の進歩をするだけの力があるということだ。

進歩は自己産出(オートポイエーシス)的である。最初に大きな設計図があり、達成するのではなく、小さな試行錯誤の繰り返しによって、長期的に進歩している。すなわち日本人は自己産出運動を促進する高い能力を持っているということだ。




経験論的調和性と超越論的調和性


日本人の自己産出能力が高い理由のひとつが、日本人がハイコンテクスト社会であることがあげられるだろう。日本人は調和性が高いことで情報が速やかに伝達されてすぐに隣をまねることで、活発な試行錯誤の運動が生まれる。

このような調和性の高さには、経験論的な面と超越論的な面をあげることができる。たとえば日本語はボク、私、オレ、わたくしなどコンテクストにそった多様な表現があるハイコンテクストな言語であると言われる。そのために表現が多様で世界の言語の中でも難解な一つと言われる。

会話は頭で考えてするものではなく、反射運動によって行われる。このためにこのような難解な言語を巧みに使うためには反復した訓練・習得によって慣習を体に刻み込む必要がある。このような身体的な他者との高い同期性が経験論的な調和性である。

また身体動作な同期に際して「日本人同士なら分かり合えるだろう」という暗黙の信頼が生まれている。このような信頼が法を越えた日本人の社会秩序を支えている。そこに「(単一民族)日本人」という信仰である。日本人なるものは厳密にはどこにも存在しないが、日本人があるように振る舞うことで存在している。これが超越論的な調和性である。




自然の破壊と人的な破壊


このような経験論的、超越論的な調和性の高さが、自己産出運動を促進している。しかし単に同期性の高さだけでは、自己産出は生まれない。自己産出とは反復が少しずつずれていくことによって、成長する。だから次への創造のための反復を破壊することが必要だ。

破壊の契機としては、自然環境からの淘汰圧と、人的な破壊・創造活動があげられるだろう。日本では自然変化、災害。豊作、飢饉などが頻繁に起こり、自然が圧倒的な力で定期的に壊滅的は破壊をもたらしてきた。そして日本人はそのたびに立ち上がり、改善を試みてきた。日本人の調和性の高い文化はこのような危機に対して、協力して立ち向かってきたことで育まれたとも言えるだろう。

もう一つは人的な破壊・創造活動である。同期性の高さの大きな問題として閉塞しやすいことがあげられる。このために日本人は外来文化を寛容に受け入れてきた。外来文化は自文化を侵略するものとして脅威であるが、日本人は柔軟に取り入れる。この日本人の寛容さは「隔絶して島国」であるために決定的な侵略を経験せず、侵略への警戒心が低いということがあげられる。

閉塞を打破するためにカンフル剤として、太古から他文化を自ら引き入れてきた。特に若い世代は古い世代の文化に閉塞を感じて変革するために外来文化へかぶれる傾向がある。豊かになるに従い、自然環境からの淘汰圧は減り、破壊は人的な外国文化を取り入れが重視されてきた。




禅的なものの導入


ボクは外来文化の中でも、禅宗の影響を重視したい。禅といえばジャパニズムの代表になっている。日本人も自ら禅にふれるよりも、西洋の禅的な日本人像を通して、禅を知るために、あまり身近な感じがしない。

しかし「禅的なもの」はもっと深く、現代の日本人に浸透している。鎌倉時代に禅が到来し広まったのは武士層であろう。そして新興の支配層として主体性を見いだすために武士は禅と取り入れ、「武士道」へと洗練させた。武士の時代が終わり明治時代になったが、近代化を進めたのはかつての武士層であり、富国強兵のために「日本人」がつくりかえるときに重視されたのが武士道である。そして日本人の総武士化は戦後までつづく。では戦後日本人は武士道的なもの、禅的なものから変革したのか。たしかに変革しただろうが、また基底において継続もしているだろう。

禅的なものの本質は、武士道に特徴な刹那主義的でも、茶道に特徴のワビサビのような、狭いことを意味するのではない。たとえば先に示した人的な破壊・創造において、禅的なものは決定的な影響を与えた。




第三の破壊方式 禅的なもの


禅が他の宗教と違うのは新たな教えを教えるよりも、様々な教えを解体して、「ただある」自然主義的な原風景へ純化することを目指すことである。それは日本人の土着的にもつ「ただあること」という原風景と通じる。その意味でとても日本人的である。

それとともに、禅的なものとは簡単に言えば、「世界はない故に世界はある」という肯定のための否定である。これはまさに破壊と創造である。それも絶対的な否定から絶対的な肯定という究極的なものである。

禅的なものによって、日本人は自然環境からの淘汰圧と、外来文化の取り入れにつぐ、第三の破壊・創造の形式を学んだといえる。それは外部からの影響に寄らずに閉塞する内部で破壊・創造する方法である。




日本人の「自己産出機械」


自己産出運動の破壊の契機が自然であれば、人は自ずと新たな創造を強いられる。しかし豊かになり自然の脅威から解離する程、人的な破壊が必要になる。それが一つは他文化の寛容な取り入れであった。侵略とは外圧であるが、取り入れは内的な運動である。だからそこにまず欲求がなければならない。

その大きな契機が禅の導入である。禅において日本人は「ただあること」という日本人の姿を超越的な美学へと転倒される。「ただあること」の美学という運動を生み出す。それはまた「我無し故に我有り」という我への目覚めでもある。このときに日本人の「自己産出機械」が真に動き出したいといえる。

日本人の自己産出運動がいつも過剰であるのはこのためである。たとえば日本人的なスノビズムといわれるものは、禅が導入後の武士道、茶道などで顕著である。スノビズムとは目的があって運動があるのではなく、運動があって事後的に目的が現れる。美的な否定、「死ぬことで生きる」「ないことでただある」によって目的が現れる。




「生き生きしたもの」ガラパゴス「萌え」


ガラパゴスと揶揄されようとただ日本人の自己産出機械は変わらずただ動き続ける。たとえばガラパゴスという自虐発言もまた次の運動への否定である。なんのためにではなくただ動くのだ。逆に「ただあること」の原風景は美学として産出される。もはや「ただあること」を目指して作動するのではなく、作動そのものが「ただあること」の美学を生み出している。

このように転倒された「ただあること」の美学とは、「生き生きしたもの」と言ってもいいだろう。武士道の死とは日常を究極的に生き生きさせる、茶道などのワビサビは何げない日常を生き生きしたものへ変える。再度言えば先にあるのは自己産出機械の運動である。「生き生きしたもの」は事後的でしかない。

それはいまも変わらない。いまの日本人も変わらず「生き生きしたもの」を求めている。それは全国民を巻きこんで、自己産出機械の作動はいままで以上に活発で、過剰で、そして転倒している(倒錯的である)。最近の「生き生きしたもの」の一番の成功例は「萌え」である。「幼児は最も性的ではない故にもっとも性的である」。世界に誇れる新たな日本文化と言われる程に「萌え」の周りで自己産出機械が活発に作動し続けている。正確には自己産出機械の作動が「萌え」を生み出している。

日本人の過剰性の系譜


鎌倉時代・・・禅
室町〜江戸時代・・・武士道、ワビサビ
明治〜戦後・・・大和魂
戦後〜昭和・・・仕事人間、全共闘ets
平成・・・萌え、ガラパゴス


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