なぜ村上春樹を読むとタフになれるのか

pikarrr2013-04-16

回転木馬のデッドヒート」

35歳になった春、彼は自分が人生の折りかえし点を曲ってしまったことを確認した。いや、これは正確な表現ではない。正確に言うなら、35歳の春にして彼は人生の折りかえし点を曲がろうと決心した、ということになるだろう。

もちろん自分の人生が何年続くかなんて、誰でもわかるわけがない。もし78歳まで生きるとすれば、彼の人生の折りかえし点は39ということになるし、39になるまでにはまだ四年の余裕がある。それに日本人男性の平均寿命と彼自身の健康状態をかさねあわせて考えれば、78年の寿命はとくに楽天的な仮説というわけでもなかった。

・・・だから35回めの誕生日が目前に近づいてきた時、それを自分の人生の折りかえし点とすることに彼はまったくためらいを感じなかった。怯えることなんか何ひとつとしてありはしない。70年の半分、それくらいでいいじゃないかと彼は思った。もしかりに70年を越えて生きることができたとしらた、それはそれでありがたく生きればいい。しかし公式には彼の人生は70年なのだ。70年をフルスピードで泳ぐ−そう決めてしまうのだ。そうすれば俺はこの人生をなんとかうまく乗り切っていけるに違いない。そしてこれで半分が終わったのだと彼は思う。


「プールサイド」 村上春樹  短編集「回転木馬のデッドヒート」 ISBN:4062749068


村上春樹の新刊が話題だ。前作といい、ドラクエかiPhoneか村上春樹か、という勢いだ。以前から人気があったがノーベル賞候補になってからいまの社会現象にまで盛り上がった。

ボクは、「羊をめぐる冒険」、「ノルウェーの森」あたりの初期が好きだ。特に一番好きなのが、短編集「回転木馬のデッドヒート」。村上春樹はたぶんに象徴的童話的幻想的な話が多いが、「ノルウェーの森」、「回転木馬のデッドヒート」は物語自体は幻想的な要素が少なく、現実的な日常描写される。そんなかつての村上春樹フリークとして村上春樹の魅力について語ってみると・・・




村上春樹という新たな日本語のリズム


村上春樹を読むとすごく心が落ち着くよね。身体的に語りかけてくる。他の作家ではないあの感じはなんなんだろう。海外でも受けているのは翻訳でも伝わっているんだろう。そもそも処女作の「風の歌を聴け」は英語で書いてそれを日本語に翻訳したという。そのエピソードからも従来の日本語の小説にないリズムを模索していたことがわかる。

この新しいリズムが身体的に語りかけてくる一つの要因だと思う。そもそもいまの日本語の文語体は明治時代の小説家たちによって生み出されたわけで、新たなリズムを生みだすこともおかしいことではない。

言文一致はまず日本の言と文とのはなはだしい隔絶への反省として出発した。その反省をうながしたのはヨーロッパの言文両者のへだたりの近さであった。そして文学の側からでた日本語の文章を変える可能性の自覚によって、言文一致は指示されて育った。しかもその自覚の契機はヨーロッパ文学の翻訳であった。そして言文一致は(二葉亭)四迷において成功し、自然主義の作家たちによって完成した。こう考えてくると、その成功はヨーロッパの原作の高さによって可能であり、その完成はヨーロッパ的文学精神によって可能であった。そういう意味で、おもしろいことに、最初に火をつけた実利的必要の方面では、たとえば新聞の論説や教科書の一部が明治を過ぎてもなお言文一致の文章で書かれなかったことが示すように、かえって、ふるい文章を保守する傾向があったのだが、こんにち広くかつ標準的な書き方としてだれもがつねになじんでいる文章は、二重三重にヨーロッパの影響をうけることによって、日本の口語言語から高くうまれでてきた文章なのである。P212-213


日本語の歴史〈6〉 新しい国語への歩み (平凡社ライブラリー) ISBN:4582766234  




日常という大きな不条理を生き抜け


初期の村上春樹作品の特徴の一つに一人称「ボク」の語りの文体がある。チャンドラーなどのアメリカのハードボイルドの文体を受け継いている。

もう一つは主人公「ボク」のハードボイルドな生き様。「ボク」は等身大の人間として、小さな趣向に囲まれながら淡々と生きている。でもどこか過去の悲しみを抱えている。そして厄介な問題が降りかかるなかで、やり通せるタフさが秘められている。しかしその問題は大きな事件などではなく、日常そのものだ。

大きな物語があるわけではなく、なにげない日常こそが大きな不条理の世界であり、そして「ボク」はその不条理をハードボイルドにタフに生き抜く。読者はそこに自らの日常を投影してタフに生きられる気がする。村上春樹を読むと世界が村上春樹的になり、タフに生きる力が湧く。極端にいえば格闘映画をみて映画館をでるとタフになったように感じるなにかがある。
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