なぜ「人類」は憂鬱なのか

pikarrr2013-05-30

近代倫理のマジックワード「人類」


マルクスの源泉は「類的存在」という自然主義にある。このような自然主義啓蒙思想キリスト教から(漠然とした)理神論へ変更した先のロマン主義に根をもつ。革命後、新たに見いだされた「人類」という理想はなにか。行き着いたのが自然な状態である。

自然主義ギリシア思想に成熟された西洋思想の、キリスト教とは異なるもう一つの形而上学的源泉である。マルクスが初期においてギリシア思想に傾倒していたのは有名である。

近代の自然主義が、ギリシア思想とともに、それ以上に自然科学に繋がるのは、近代思想のニュートン力学の影響を考えればわかるだろう。たとえば近代倫理の「人類」というマジックワードは自然科学が引っ張る。これは一方で人口論や経済学などマクロ管理、また優勢学などの科学的分類を重視することに繋がる。




もうヴォルテールの世紀のような陽気さには戻れない


マルクスは徐々に形而上学を嫌い、相対主義に傾くが、本質的にはなにも解決されていない。ニーチェも反キリスト教として自然主義に取り組んだ。ダーウィンと同世代のニーチェは独自の淘汰論で超人思想を生み出す。

しかし永久回帰という輪廻論などに現れるように突き詰めた先にあるのは、幸福な姿ではなく、マルクスと同様、相対主義に傾く。これらをポスモダたちが批判思想として相対主義を磨いていくことになる。

このような思想的背景も含めて、現代は自然主義の時代である。文明そのものが自然主義を疑うことない基盤として構築されている。そしてヴォルテールよりルソーに人気があるのが、自然主義の憂鬱をはじめて赤裸々に語ったからだろう。それはいまも変わらない憂鬱。人類はもうヴォルテールの世紀のような陽気さには戻れない。

革命以前は、見える障碍からの解放が目標だった。しかしポスト革命社会では、人間の精神にとって争点は<解放の追求>から<自我の問題>へと移行し、ルソーが明らかにした「個人の自我意識の問題」が登場する。そして<自我の問題>は、ルソーの文学を介して十九世紀に広がり、七月王政ではより現実的な社会問題となるのである。<自我の問題>は「病」を発症する。トクヴィルは、個人主義は無気力と倦怠、そして憂鬱に至り、それどころか精神錯乱、自殺にまで至る可能性があるとさえ示唆する。P114


復古王政期の歴史哲学では中産階級に代表された「人類」が、七月王政期には下層階級を含めた、いやかれらによってこそ代表されるものとして語られるようになる。むろん、その背景には大ブルジョアジーの支配、歴然と存在する不平等があった。・・・当時、新聞雑誌に論説の主題に「人類」を取り込んだ典型的な存在は、月刊「百科全書誌」などの論説で「人類」を語るピエール・ルルーだった。・・・一八三四年の論考で「社会主義」という言葉の生みの親となるルルーは、政治的には共和主義左派を代表する論客として健筆を振るうようになる。「境遇の不平等」の存在を指摘するルルーは、「政治とはもはや一つの原理でしかない。平等である」と延べ、誰もが平等に結びつくことのできる理念として「人類」を提唱する。ルルーによれば、古い制度や価値を解体した啓蒙哲学によって「社会が粉々になっている」今日、人類の理念のもとに再統合を果たさなければならない。P184-186


トクヴィルの憂鬱: フランス・ロマン主義と〈世代〉の誕生 高山裕二 ISBN:4560081735


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